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田熊の赤ひげ先生【田熊の医師井上先生の頌徳碑】

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田熊 明治初年恩徳の医師井上先生頌徳之碑
 通常、植月線と呼んでいる道路=主要地方道津山大原線を、河面(こうも)から田熊(たのくま)へ向けて行くと、田熊分に中鉄バス八ヶ原駐車場がある。この付近の向かって道路右側横に、医師井上先生の頌徳碑(しょうとくひ)が、建立されている。
 作州の場合は、幕末から明治の初めにかけて医者は、ほとんどが大阪や京都などへ勉学に赴(おもむき)き、苦労してその資格を得ているが、その割りに報われず、まさに「医は仁術(じんじゅつ)」として、奉仕の生活を余儀なくされた。 

 田熊のある老人の話によると、自分の祖父は医者であったが、家族の者に間違っても、子孫は医者にするなと遺言を残して亡くなったという。その話を要約するならば、懇意にしている農家の嫁さんが、かなりの重い病にかかった。何としても治療を思い、当時、長旅をかえりみずに京都まで良薬を求めて行き、その後も献身的な面倒をみた。やがて、薬石の効があって健康を回復し、共に喜んだのはよいが、治療代の報酬はというと、年の暮れに八ヶ原池で捕れたカモ一羽だけだったそうである。医者をしておれば、身代をつぶすというわけである。この話は、一方の庶民の側からみると、それだけに当時の医師はありがたい存在であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)

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 田熊の医師井上先生の頌徳碑も、この当時の恩徳に感謝し、建立されている。頌徳碑の文字を、下し読みして概略を記述すると、およそ次の内容である。
「郷に賢哲(けんてつ)有れば、則(すなわち)ち後世法(のっと)るところを知る。朝陽翁(ちょうようおう)の若(ごと)きは蓋(けだ)し其人(そのひと)か。翁少小(おうしょうしょう)にして学を好み、浪華(なにわ)に遊ぶ(遊学す)。学既(すで)に成りて泉州安孫子(せんしゅうあびこ)に住し、醫(い)を業とし、傍らに徒に授(さず)く...(弟子に教える)。居十年にして帰る。其の郷に在るやまたなお在泉の日のごとし。遠近より来集するもの頗(すこぶ)る多し。翁醫に精しく経に長じ、詩及び書を善くす。投薬するに方有り、人を教えて倦(う)まず。病として消除せざる無し。弟子各々樹立するところ有り。翁没してより業に三十餘年。今に至るも一郷(諸人)翁を称(たた)えて衰えず。是れあに恩徳の人心を感孚(かんぷ)するの大なるに非(あら)ざらんや。今茲(ここ)に友門胥謀(ゆうもんあいはか)り、碑を建てて不朽に垂れ、後人をして矜式(きょうしき)する(誇りとする)所あらしむ。翁名は文友、字(あざな)は世微(せいび)井上氏、朝陽(ちょうよう)は其(そ)の號(ごう)、勝田郡田熊の人なり。明治十四年九月十四日没す。享年五十五。銘に日く、術を以(もっ)て人の齢を延ばし、学を以って人の心を正す。嗚呼(ああ)翁の恩徳たるや瀧山のごとく高く、瀧水のごとく深し。
 大正三年(1914年)四月 牧 馬 撰并書(せんならびにしょ)
世話人 広野弥平 久常勘一郎 広野竹治 忠政槌五郎 柿内芳太郎 横部久夫 石工津山市 小西源太郎
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下木の高台に井上先生ゆかりの診療所がある
 井上先生没後より1世紀を経て、今井上先生の診療所であったという建物は、下木の高台に残されているが、全く空き家となっており、訪れる人とていない。石碑によって、私達は先生の業績を知るのみである。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)