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取材記事内を検索ワード「宗永寺」で検索した結果,14件の記事が見つかりました。

長松山 法林寺(大字宮部上)旧久米町

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長松山 法林寺(大字宮部上)は、本源寺の過去帳から見ると元和元年(1615)二月五日から始まっています。


作陽誌に長松山法林寺臨済 当寺者在リ 同村ニ 妙心再住正伝ノ開基也、 本尊 釈迦 脇士 普賢 文珠、鎮守 荒神、本寺 法源山宗永寺、境内 方五十間許と記されている。
 此の寺は寛文元(1661)年六月賢堂祖元和尚の開基で、開山は同年十月十六日、正伝元正老和尚によるものである。

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新高倉稲荷神社(西今町)

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この神社は嘉永元年初春に西今町の人山手屋江原市右衛門が高倉稲荷大明神として建立し祭祀したが、故あって嘉永3年に徳守神社の境内末社として遷祀されました。しかし翌年再び此の地に祠を建て新高倉稲荷神社と号し西今町の守護神として150年の長きにわたり祭祀されています。 例祭...夏祭り 7月28日 秋祭り 10月28日

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千人塚-三界萬霊塔-

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<最初の三界萬霊塔-千人塚->
 江戸時代、津山藩では、はじめは罪人の処刑場は城下町西はずれにある筋違橋の外側にあったが、その後処刑の場所は川辺河原又は兼田河原になった。兼田は城下町の東部の川崎村の一部で加茂川の西岸に位置し、この場所はまた出雲街道の渡し場でもあった。往来の多い所へ刑場を設けて、みせしめにするという意図があったためと思われる。
 川辺河原、兼田河原での処刑の記録は数多く残されている。
 多くの罪人が怨念を抱きながら生命を捨てた兼田河原に、いわゆる千人塚が建てられたのは寛政2年(1790年)で、高さ5尺余(1.5m)の塚の正面に「妙法 三界萬霊塔」、側面に願主としての「泰安寺剛誉、地蔵院大賢、本願寺神宗」、裏面に願文が刻まれている。願文の要旨は次のようである。「作州津山領の川崎村兼田に石碑を創建して有罪の亡魂を供養回向しようと欲する。時に寛政2年庚戌、2月吉日。」萬霊塔を創建して供養する。
この功徳をもってあまねく有罪の亡魂を導いて一切の満霊が同じく覚りの路を登らんことを願うものである。
 時の藩主は康哉で、願主の三寺は松平家とは特に関係が深く歴代藩主はしばしば参旨した。
 なお、その後も引き続いて明治初年までこの地で処刑が行われた。

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法源山 宗永寺(小田中)

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 法源山宗永寺は往昔花園天皇の帰依建立となる京都妙心寺を大本山とする臨済宗妙心寺派の末寺で、津山城主 森長継公(二代目藩主)の母堂の菩提寺なり。(明暦2年・1656年建立)。渓花院は森忠政公の息女で美濃の金山で生まれ、関民部成次に嫁し元和元年(1615年)21歳で津山に没す。西今町の裏の渓花院に葬られるも、その後明暦2年に宗永寺が建立される。他に長継一門の供養墓として、清泰院殿(忠政公側室)本光院殿(長継公息女・於鍋)、陽林院殿(長継公子息・頼母)、影幻院殿(長継公子息・吉之助)、梅雲院(長継公側室・頼母の母)の石塔を安置す。
古書には9間×12間を擁し城主の信仰篤く、作州の名刹に数えられしが、天保年間惜しくも焼失、現在の本堂は旧観音堂なれど、これは元文4年(1739年)万人講により建立す。その規模から推して旧本堂の壮大さが想像できる。その後、大正年間に檀信徒の再建熱願により観音講を設け、復元計画されたしも挫折して今日に至る。2009.9.19・20

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