千人塚-三界萬霊塔-
<最初の三界萬霊塔-千人塚->
江戸時代、津山藩では、はじめは罪人の処刑場は城下町西はずれにある筋違橋の外側にあったが、その後処刑の場所は川辺河原又は兼田河原になった。兼田は城下町の東部の川崎村の一部で加茂川の西岸に位置し、この場所はまた出雲街道の渡し場でもあった。往来の多い所へ刑場を設けて、みせしめにするという意図があったためと思われる。
川辺河原、兼田河原での処刑の記録は数多く残されている。
多くの罪人が怨念を抱きながら生命を捨てた兼田河原に、いわゆる千人塚が建てられたのは寛政2年(1790年)で、高さ5尺余(1.5m)の塚の正面に「妙法 三界萬霊塔」、側面に願主としての「泰安寺剛誉、地蔵院大賢、本願寺神宗」、裏面に願文が刻まれている。願文の要旨は次のようである。「作州津山領の川崎村兼田に石碑を創建して有罪の亡魂を供養回向しようと欲する。時に寛政2年庚戌、2月吉日。」萬霊塔を創建して供養する。
この功徳をもってあまねく有罪の亡魂を導いて一切の満霊が同じく覚りの路を登らんことを願うものである。
時の藩主は康哉で、願主の三寺は松平家とは特に関係が深く歴代藩主はしばしば参旨した。
なお、その後も引き続いて明治初年までこの地で処刑が行われた。
▲写真提供:福寿会
<高倉百姓一揆>
元禄8年(1695)から10年まで領民の7%が餓死するほどの大凶作が続いていた。「このままでは、餓死する者が続出する。農民を見殺しにするわけにはゆかぬ。強訴するほかあるまい」と決心したのは高倉村の堀内三郎右衛門であった。近郷の大庄屋の中で、ただ一人であったが、文禄11年11月11日高倉一揆をおこし、津山城をめざして城下に押し入ったが、指導者全員が捕えられ、元禄12年3月27日に一門8人をはじめとして兼田河原で斬首となった。農民の窮状を救おうと、命をかけて強訴におよんだ指導者8人の霊もいわゆる千人塚で供養回向されているのは勿論である。
▲写真提供:福寿会
<供養塔>
川辺村は、加茂川の東側に位置している。兼田橋を東に渡りきった所に等身大の石地蔵がある。台座の正面中央に大きく「供養塔」と、これを挟んで「光明真言」と「三百邁遍」と刻まれている。向かって右側面には「文政十丁亥年五月良辰建焉」左側には「施主玉置光」とある。堺町の美濃出屋玉置が処刑者供養のため、文政10年(1827年)に建立したものである。
国道53号線の開通に併って道路の改修がなされた際に、現在位置に移されたものである。河川の流れ方にも変遷があったが、現在も東側に河原がある。
川辺河原でも出雲街道に近い位置が刑場になっていたものと考えられる。
<大正時代の-千人塚->
江戸時代に創建された千人塚は、その後長い間無縁の塚として訪れる人もなく弔う人もなく唯荒廃に委して見る影もなくなっていたが、大正5年10月30日、川崎の鈴木茂市氏の発起により各宗の僧侶と協力して一大供養を営んだ。その費用約200円は有志の寄付金によったが、鈴木氏がその過半を負担した。
三界に迷う霊の碑であるが、参拝者は数千人に達したとある。参加した寺院は次の22寺院である。
泰安寺・本願寺・地蔵院・高福寺・本行寺・長安寺・妙願寺・妙法寺・国分寺・大円寺・聖徳寺・長雲寺・福泉寺・光厳寺・長法寺・成道寺・宗永寺・安国寺・蓮光寺・萬福寺・浄円寺・七面堂。
大正15年3月因美線敷設工事に土砂採取中、兼田処刑場跡より白骨がぞくぞく掘り出され、殆ど数えきれない数に達したため一時発掘を中止し、再び川崎の鈴木茂市氏が施主となって盛大な納骨式が行われ、参拝者は3,000人に達したという。
参加寺院は泰安寺・本行寺・高福寺・本行寺・妙勝寺、鈴木茂男さん宅には大正期の慰霊を物語る高さ74㎝の「三界萬霊十方至聖」と記した位牌が残っている。茂男さんは「祖父は家でもずっと霊を慰めていた」と話していた。
<昭和時代>
昭和20年(1945)の水害で三界萬霊塔の碑は不明となったが後年河の中に埋まっているのを発見し、昭和56年碑を建て現在に至っている。この工事は加茂川の改修工事にともない、兼田町内会の土居一会長、老人クラブ・福寿会の尾嶋熊太郎会長、井上明信市議等が協力して移転を要望し県津山振興局、吉井川漁業組合が協力して姫新線南側のもとの位置に近い堤防上に移転が実現した。
県が加茂川の改修工事を行うのに伴い千人塚も少し移動させることになり県費580万円でもとの位置から約20米は離れて姫新線沿いに建立し直された。当時町内会・壮年会・老人会の役員住民等が多数の人骨の収集に協力した。昭和56年から兼田子供会が中心になり毎年8月16日夜旧兼田橋上手の加茂川で灯籠流しを行った。川面をゆれながら流れる幻想的な灯の帯に、亡き人を思いながら手を合わせる多くの人々の姿が見られた。
<老人クラブ、福寿会の千人塚護持会>
町内老人クラブによって千人塚護持会が結成され、千人塚及びその周辺の草取、清掃を年何回も行い維持、管理を行っている。毎年春・秋の彼岸の供養・お盆の法要を行い、死者への霊を慰めて来た。その時の様子が津山朝日新聞の記事(昭和63年3月21日)には、「この日は、午前9時から兼田橋南の加茂川沿いに建つ三界萬霊塔で、老人クラブ員・地区住民・来賓等約60人が参列し、林田の高福寺・明楽昇応住職を導師に供養が行われた。参拝者らは読経の中次々に焼香しながら手を合わせ霊を慰めた」とある。
(2011年7月31日取材)文:兼田老人クラブ福寿会「千人塚ー三界萬霊塔」より
大規模農道沿いにある義人堀内氏の碑
田中角栄さんの書