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取材記事内を検索ワード「寺」で検索した結果,920件の記事が見つかりました。

出雲街道 坪井宿

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坪井宿は、津山から三里半(約14キロメートル)程の距離にある。津山を発した出雲街道は、院庄から吉井川を渡り、中須賀・領家(茶屋)・千代・坪井と久米町内を経て真庭郡落合町へ通じているが、その宿場跡として唯一町内に残っている場所が坪井宿である。
ここ坪井がいつごろから宿場としての役割を果たしていたのかは定かではないが、本格的に整備が行われたのは、森忠政が美作国主として作州に入封した慶長8年(1603)以降といわれ、以後、街道の整備や交通量の増大にともない、陰陽交通の要として宿場機能の充実がはかられていったと考えられている。さらに、元禄10年(1697)森氏廃絶ののちは一時幕府領となったことにより、幕府の代官所が宿場内に置かれたため、以後は宿場町であるとともに、政治的な機能をも併せもつこととなった。
かつての町は、七森川から引いた水が流れる水路が中央にあり、それを境に南北に二分されていた。水路を挟む道路は南北それぞれに二間(約3.6メートル)の幅をとり、北側の道路は出雲街道で多くの旅籠や家屋が並んでおり、対して南側の道路は里道といい、一般の使用に供されていた。このような町のかたちから当時は「麦飯町」の異名もあったという。そして、水路のほとりには柳が植えられ、現在、町中にある常夜灯もかつては水路のたもとで灯りを点じていたとのことである。
宿場町坪井は、江戸・明治・大正・昭和とその役割を果たしたのち、宿場当時の面影を残す平静な住宅地となり、現在に至っている。(2010年5月30日)
久米町教育委員会

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山形弘記念館

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▲山形弘記念館全景(2010年5月28日取材)
【故 山形弘(雅号:笠松道人=かさまつどうじん)さんPROFILE】
1927年津山市生まれ 55年光風会入選以後出品 67年日展入選以後出品 76年妙法寺本堂壁画制作 77年県展山陽新聞社大賞受賞 83年日展光風会退会 パリ国際展出品優秀賞受賞、円通寺障壁画制作、賜紺緩褒章 84年上野森美術館賞受賞、国美展審査員就任 85年ロンドンロイヤル美術館大賞受賞、聖徳寺天井画障壁画制作 86年国際アカデミー賞受賞 87年津山カトリック教会大壁画制作、日本版画賞受賞 88年サロン・ド・パリ委員 89年大阪三越個展、ニューヨーク版画展招待 鏡野病院壁画制作 90年岡山高島屋にて個展 91年久米小林寺本堂壁画制作 山形弘記念館完成 津山警察署壁画制作 92年久米小林寺本堂壁画制作 93年津山振興局壁画制作 94~96年県展審査員 96年 津山市名誉市民肖像画12名揮毫 津山市依頼 97年国美藝術展文部大臣賞受賞 1月没 98年画集出版(気韻生動)遺作展 津山高島屋 99年笠松道人(水彩画)遺作展 2Fくらやアートホール
賜紺綬褒章 4回受章。津山市文化功労賞受賞。海外研修15回 個展 東京・大阪・岡山・津山 20回 国際美術協会理事 国美展審査員 サロン・ド・パリ委員を務めた。平成9年1月11日没

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棟方志功と柳井道弘記念館(M&Y記念館)

釈迦十代弟子

▲棟方志功の代表作「釈迦十代弟子を全て見ることが出来ます。お寺さんに魂を入れてもらいましたのでご 利益あり。

 

M&Y記念館は、板画家棟方志功と上斎原出身の詩人柳井道弘との津山・美作地方における交流や足跡をメイン テーマとしています。

 

昭和23年、柳井道弘に津山を案内され、当時の美作地方在住の若き芸術家たちや日本原開拓団の人々と交流し、大いなる楽しい時間を過ごし、会った人々に多 大な影響を与えた棟方志功は、その後、たびたび津山・美作地方を訪れています。
同時に、残された文章や歌などから、棟方志功は津山・美作地方を絶賛し、非常に愛してくれていたことがわかり、また、謎のような文章も残っています。

 

 

津山を愛した棟方志功とその歴史を伝えるM&Y記念館について詳しくは、↓のページをチェック!
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/munakata/index.html

 

旅館「お多福」のお宝(作州維新文庫)紹介

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 創業以来、80年を越えるお多福は、郷土の偉人・先人の遺墨や書簡など、多数の作品を収蔵する「作州維新文庫」があり、貴重な書画を中心として館内に展示保管されている。一例をあげれば、津山藩主松平康哉が描いた山水画。歴代藩主の中でも、特に名君として誉れ高い松平康哉は、宝暦12年藩主となり、学校を起こし藩士の教育を奨励、また武道の振興を講じた。そして能力のある人物の起用を広く進め、若き優秀な人材を発掘、登用することを常に心がけ、藩政改革に挑んでいった。しかし、その理想が結実することは容易ではなく、幾度もの紆余曲折があった。とくに天明年間は全国的に天災が多く、大凶作が続く困難な状況のもと、藩内外に倹約令を出して乗り切った。また江戸にあって康哉は熊本藩主細川重賢に私淑したほか、米沢の上杉鷹山・白河の松平定信らの諸侯と親交を深くし、幕政にも大きく寄与するところがあった。資料提供:旅館「お多福」(2010.5.10)
※作州維新文庫には、広瀬臺山遺墨、飯塚竹斎遺墨、津山藩御用絵師遺墨、作州文人遺墨、津山藩維新志士遺墨、平賀元義及び門人遺墨、江戸期岡山歌人遺墨などが収蔵されている。

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愛染寺のぼたんが綺麗でした。

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毎年、5月の上旬にはボタンが見頃を迎えます。
愛染寺は鐘楼門及び仁王堂は、岡山県指定文化財建造物に指定されています。また、神崎與五郎母堂の墓、大師堂裏に「秋月妙清信女」の墓があります。この墓は神崎与五郎則休の生母の墓で、元禄3年に死没し、与五郎がここに葬りました。与五郎は寛文6年津山で生まれ、のちに穂藩浅野家に出仕、赤穂義士として元禄16年江戸城水野邸で自裁、泉岳寺に眠ります。時に38歳でした。(2010.4.29)
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千年寺のさくら

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▲津山の郊外に千年寺がある。名を長継山千年寺といい、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 今は、桜の木が大きく育って、とても綺麗に整備されていました。現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。 (庫裡を取壊した後、大東亜戦中に疎開して来ておられ、昭和50年千年寺徒弟となった梅本南山翁が昭和61年まで居住)

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千光寺の枝垂桜

平成23年(2011年)の夜桜は、震災を考慮して自粛とするそうです。(4月3日追記) 

 

昨年の様子はこちらから

千光寺ヘッダ

▲千光寺のさくら、「今年 は樹木医さんに治療してもらい、少し隙間がありますが、色は昨年より鮮やかですね。」と住職さん。本当に今年はピンク色が鮮やかで す。(2010.3.24)

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