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取材記事内をタグ「勝央町の歴史」で検索した結果,4件の記事が見つかりました。

諏訪神社(勝田郡勝央町河原)

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当社の創建年月は不詳であるが、河原鏡山に古吉野庄の総社として創建されたと伝われている。
 天平5年(733)9月20日庄内の住民が集合して大祈祷を行って以来、この日を大祭日定めたとされ、当日は縫い物、畑仕事を禁じられた。
 長久3年(1042)古吉野庄の氏子の総意により、信州諏訪大社の御分霊(建御名方命)を勧請し、合祀した。
 安元2年(1176)広戸風の大烈風で本社が大破したので、移転地を信州諏訪に似たところとして、風害の少ない現在地に再建した。(御祭神 建御名方命 速秋津姫神 素盞嗚命 譽田別命 大國主命
倭建命 大己貴命)
 神社の境内にある神木(びゃくしん・いぶき)は本社移転時に諏訪豊前守藤原安盛宮司が手植えされたと伝えられ、樹齢800年の神秘な樹姿を見せる。また、十郎、徳丸(村人)の蛮勇で河原田圃開発の祈祷に使った伝承を持つ「雨乞い石」がある。(文:岡山県神社庁HPより)

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神崎屋敷跡(神崎与五郎則安の両親の墓)

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 神崎家は備前和気郡の出身。浦上家の同族と伝承される。祖父三郎兵衛茂範が森藩の値段奉行となり津山南新座に移る。
 神崎与五郎則安 赤穂浪士四十七士の一人(竹平と号す)
 父 又市光則(後半右衛門と改名)値段奉行十三石三人扶持
   元禄3年(1690)ごろ浪人し黒土に移住、寺子屋を開く
 母 先妻死後、勝間田下山六郎兵衛の娘
   寛文6年(1666)津山で生まれ津山藩に仕え父と共に藩を辞し黒土に移る。年代は不詳であるが五   両三人扶持五石(役料)
 父墓碑 本然院理空猶水居士
     享保2年(1717)8月2日 光則・光隆建之 
 母墓碑 悟心妙徹信尼
     享保15年(1730)9月8日 妻76才 光隆建之 
「光隆」については諸説あるが与五郎の弟と推定される。
昭和61年3月 勝央町文化財保護委員会・勝央ライオンズクラブ(文:案内板より)(2016年2月3日撮影)

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高祖 諏訪豊前守安盛墓と諏訪神社の跡地

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諏訪豊前守安盛墓と諏訪神社跡地が勝田郡勝央町古吉野(現.河原、石生、町川)にある。
 文武4年(700)河原鏡山に小吉野庄の総社として神社を創建。天平5年(733)旧9月20日庄内の住民(開墾者)が集合して河原田園開発の大祈祷を行う。長久3年(1042)小吉野庄の氏子の総意により、信州諏訪大社の御分霊(建御名方命)を歓請した。このとき諏訪安久(清和天皇の皇子貞純親王九代の孫室賀二郎盛扶の三男)が順行、諏訪豊前守定信宮司となって平重盛の子女を妻に迎える。安元2年(1176)広戸風の大烈風で本社が大破、諏訪豊前守安盛が風害の少ない現在地に移す。建久3年(1192)諏訪豊前守安盛に至り、源頼朝より小吉野庄地頭職の相談役として任命される。その後、応永7年(1400)安久より六世を経て男子なく、日野大納言時房の子兼信を養子とし、結婚と同時に性を出雲井と改め、式部太夫兼信とする。(文献:美作名門集)(2015年6月9日・10月12日撮影)

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