久米地区(※要整理/_地区別)

岩谷山 「妙福寺」(津山市中北上)

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岩谷山 妙福寺(日蓮宗)沿革 (2012年5月13日取材)
 日蓮宗妙福寺の開基は、文明元年(1469年室町中期)日了聖人によるものであります。当初は坪井上福本の「寺山」にあったが、天正12年(1584年桃山中期)花房職秀により、現在の地に移されました。
 妙福寺は、岩屋城と関係は深く、天正10年(1582年)には、本能寺の変があり、続いて高松城の落城、この時の岩屋城主は中村頼宗でありました。頼宗は元来、毛利方であり、美作には毛利恩顧の者は多く、死をもって忠誠を表すことを決意していました。

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県指定史跡 久米廃寺(くめはいじ)跡

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県指定史跡 久米廃寺 津山市宮尾(2012年7月3日・25日取材)
 この地には「唐臼」呼ばれる古代寺院の塔の心礎があり、小字名も「唐臼」と称されていました。
 この寺院跡は、この地方が古代の美作国久米郡久米郷に属していたことなどから、久米廃寺と呼ばれていましたが、中国縦貫自動車道(当時)建設工事に伴って実施された発掘調査(昭和44~46年)により、説明板にある復元想像図のような寺院のあったことが明らかになりました。このため日本道路公団と協議して高架橋に設計変更して遺跡が保存されました。
 この久米廃寺は、今から約1,300年前(白鳳時代)に創建された寺院ですが、火災にあい、平安時代の前半には廃寺となってしまったようです。最盛期の寺域は東西130メートル、南北110メートルの規模で主要な建物である金堂・塔・講堂が、回廊または築地塀の中に東西に並列して立てられ、東側の一段低い谷の部分に雑房(寺院関係者の生活場所)がありました。この場所に接して東方に「宮尾遺跡」があり、掘立柱建物など22棟が発掘されました。これは白鳳時代から奈良時代に存在した「久米郡衙(くめぐんが)」の跡と考えられています。
 当時の郡衙の役人(郡司)には地方豪族が任命されることが多く、彼らは権威の象徴として、寺院を造営し、民衆に誇示しました。久米廃寺の建立にも、こうした背景がうかがわれ、初期仏教文化の地方における受容の姿を知るうえで、この久米廃寺は貴重な遺跡といえます。昭和52年04月08日県指定史跡
主な出土品/仏像(塑像仏・塼仏)・青銅製相輪、蓮華文軒丸瓦その他多数
平成2年3月岡山県教育委員会(文:案内板ほか)

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曹洞宗 清涼山 正覚寺

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曹洞宗 清涼山 正覚寺  (2012年6月24日取材)
縁起
 当院は曹洞宗太源派に属する寺で、作陽誌には次の通りに記述されている。
 本尊千手観音 鎮守春日大明神 本寺夢中山幻住寺 境内東西百七十間南北六十五間となっている。本尊は千手観音となっているけれども現在の本尊は釈迦三尊であり、鎮守は白山大権現である。
 久米郡旭町大字北にある夢中幻住寺第二代の住職大庵洞益(1434~1461永享6年より寛正二年まで二十八年間住職)は長禄二(1458)年、今の大字宮部下、久保神社の西隣に地に小さな寺を建て、「普門寺」と称した。しかし此の寺は未だ本山からも認められておらず従って寺格もない平僧地であった。
 夢中幻住寺は永禄年中に失火、永禄九(1566)年より天正十九(1591)年まで二十六年間無住、其の後天正十九年に法山存悦が幻住寺に入った。
此の人は元和五(1691)年迄二十九年間住職として幻住寺の復興に尽して功績のあった人である。此の法山存悦が幻住寺復興に尽した経験と才幹をもって宮部地方の人々に説き、喜捨を集めて、寺地を宮部上村の王子に定め、前記の普門寺をここに移して寺院を建設したのである。
であるから此の寺の開基も開山も実際には法山存悦であるけれども、普門寺の開山である幻住寺第二代の住職大庵洞益を迎えて勧請開山に据えたのである。
時代はわからないが法山存悦の幻住寺10色在任中の天正十九年から元和五年に至る二十九ヶ年の間と推定する外ないのであって、かいざんは実際よりも百二・三十年も前に遡って長禄二(1458)年の普門寺の開山そのものが此の寺の開山とされたわけである。
 作陽誌(西作誌)は元禄二(1689)年から元禄六(1693)年までかかって森藩の編纂した地誌であってこの頃ではすでに山号(清涼山)も寺号(正覚寺)もあり、本尊は千手観音、鎮守は春日大権現で夢中山幻住寺を本寺とするちゃんとした寺院に成長していたのである。(全文: 久米町史より)
曹洞宗 清涼山 正覚寺 本尊 千手観音 (津山市宮部上1663)
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久保(ひさやす)神社 (旧久米町)

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久保(ひさやす)神社   (2012.5.22取材)
 祭神は保食の命・句々迺馳の命、祭日は、例祭10月15日、祈年祭5月1日、新嘗祭12月15日である。
 当社は古くは久保妙見社、久保大明神などと称していたが、明治4年7月に太政官布告によって久保神社と改称され、昭和35年3月には青木神社を本社に合祀して今日に至っている。
 本社は寛文13(1673)年、本殿の再建立の行われた棟札があって、それより以前のことは全然わからないが、それ以後のことは棟札や棟札を写した記録によって沿革の大要をたどることが出来る。文政6(1823)年の頃迄の約150年間程は大字宮部下の中尾家の人によって神主が勤められていたので中尾家につたわる書(棟札の写しと、神社にある棟札とを年代順に整理した文書)がある。
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國司神社 (旧久米町)

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国司神社(2012.5.13取材)
 祭神は、大国主の神である。此の社の文書の中に祭神に関するものがある。
國司神社は、作陽誌に
同村(宮部下村)國主社、祭九月九日、境内東西十八間、南北十六間。
と書かれている、当社の文書によると、川原寺の信徒が話し合って、明応元(一三三八)年三月七日、出雲大社から國師大明神即ち、大国主の命を勧請し、現在の地に社殿を造営して産土の神としていつきまつり、子孫繁栄、五穀成就、牛馬安全の護り神様としたもので、其の後弘治元(一五五五)年に当社の神主家行見氏の祖霊社を祭り、天正三(一五七五)年には諏訪大明神(祭神建御名方の神と事代主の命の二柱)を勧請し、更に慶長三(一五九八)年に愛宕神社(祭神は雅産日の命・埴山姫の命・伊弉冊の命・天熊人の命)を併せ祭ったものである。(久米町史より)
 
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