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取材記事内を検索ワード「本光寺」で検索した結果,16件の記事が見つかりました。

瑠璃山 本光禅寺

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 長徳(995)のころより薬師如来を安置して、神徳寺と称す。
寛文(1661)のはじめ津山藩二代目森 長継黄檗の木庵禅師の高弟鉄堂に帰依し本光寺と改名
  東一宮中村七十五石六升六合、西一宮湯谷村七十四石九斗二升四合、計百五十石を禄高として再興、森家菩提寺となる。
元禄十年、森家改易と共に一時寺領退転となるも、森家の族、播州乃井野の城主、森對馬守長俊、同備中新見の城主、関備前守長治、同赤穂加里屋の城主、森和泉守長直等の諸侯より茶湯料として各高十石宛寄附あり。

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「従此千年寺道」の石柱(下田邑)

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津山市下田邑に「従此千年寺道」の石柱がある。この石柱は、津山市一宮にある「瑠璃山 本光寺」と下田邑にある「長継山千年寺」(長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。)を結んだものでしょうか?※長継公は津山藩で最も長く藩を統治した人物で、森家の盛衰を見届けた唯一の人物でもある。長継は初代藩主・森忠政公の外孫で、姓は関氏といい、森家の重臣だった。(2014年5月6日取材)

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千年寺とさくらの花(津山市下田邑)

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長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 今は、桜の木が大きく育って、とても綺麗に整備されています。(2014年4月6日)

 現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三 箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。

(庫裡を取壊した後、大東亜戦中に疎開して来ておられ、昭和50年千年寺徒弟となった梅本南山翁が昭和61年まで居住)※前回の取材に詳しく載っております。

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津山人「全日空を創った 美土路昌一氏」

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津山市一宮の本光寺参道の前の小路を上がってゆくと美土路昌一氏の墓があり、横には碑が建っている。右上には「言論自由の語は之を守る為め死を辞せざる者のみ言い得る言葉なり」とあり、下方には「この夏は越せそうも無き米寿かな」とある。後者は死の三日前の絶筆である。

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↑2015年12月7日現在は先祖代々の墓地で静かに眠っておられます。

(美土路昌一氏は明治19年7月16日中山神社の社家の一軒で生まれた。)

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美土路家(現津山高校100周年記念館)の前の津高の門を入ってすぐ、よく伸びた二本の松がある。これは、はじめて空を飛んだライト兄弟の飛行場の松の種をもらって、母校の庭に寄付して植えたもの。

よく言っていた言葉「一歩退って人に接せよ」、「何ごとも、まず相手のことを考えよ」、「水流先を争わず」文:津山市文化協会「津山の人物」より)


 「現在窮乏、将来有望」これは津山市出身で市の名誉市民 美土(みど)路(ろ) 昌一(ますいち)氏が全日本空輸(ANA)の前身である「日本ヘリコプター輸送株式会社」創立時に掲げたスローガンです。

1886年(明治19年)、苫田郡一宮村(現:津山市一宮)で生まれた美土路 昌一氏は、旧制津山中学を卒業後、文学を志し早稲田大学文学に入学されました。苦学の中、文学の道を断念され大学を中退後、朝日新聞社に入社されました。

 入社後は第一次世界大戦(青島戦)に従軍されたほか、上海、ニューヨーク特派員を経た後、編集局長として神風号による東京‐ロンドン間の記録飛行を成功に導くなどの活躍をされました。
 その後、日本は戦火の渦に突入しますが、戦中、編集局長、常務取締役と朝日新聞社の要職にあった美土路氏は言論の弾圧にさらされます。

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