2018 千光寺の枝垂桜が綺麗です。
2018年3月28日の千光寺の枝垂桜の様子です。千光寺は歴史景観地区に位置し、境内には樹齢150年(推定)のしだれ桜があり、開花時には県下はもとより京阪神からも写真家・歌人等が多く訪れるます。今年も沢山の方が見に来られていました。
2018年3月28日の千光寺の枝垂桜の様子です。千光寺は歴史景観地区に位置し、境内には樹齢150年(推定)のしだれ桜があり、開花時には県下はもとより京阪神からも写真家・歌人等が多く訪れるます。今年も沢山の方が見に来られていました。
2018年3月28日の津山城(鶴山公園)のさくら開花状況です。「つい昨日に開花宣言を出したばかりなのに、夜の冷え込みもなく、しかも日中はあったかなので一気に花が咲き始めてしまった。」そうです。例年よりは7日早いそうです。「津山さくらまつり」は4月1日のオープニングに始まり、4月15日まで開催されます。
2018年3月24日清々しくとてもいい天気になった津山です。そこで久しぶりにイナバ化粧品店さんに伺って来ました。店内は全国各地から来られたファンの人たちの笑い声でいっぱいです。ママの調子は少々のことは誰でもあると笑顔満開です。これから津山市は「津山さくらまつり」のイベントが始まります。ママからの伝言「全国の皆さん、津山へおいで下さいね。」
ROUTE178 B'z津山を盛り上げる会(二番街・津山銀天街・元魚町商店街)の皆さんが、津山さくらまつりの一環として企画されておられる楽しそうなイベントを取材させていただきました。なんと、デグチビル側面には看板が設置され、また、「ROUTE178 B'z津山を盛り上げる会(イナバ化粧品店協賛)」の常夜燈が12基設置されました。会長の出口剛三さんは「昨年の津山公演も、その後の、お誕生日おめでとう会や多くのファンの人たちと触れ合えとても感動した。もっと早くにしてあげればよかった!」と反省しきり。夏には、B'z結成30周年記念を企画中だとか。とっても楽しみですね~。(昔の元魚町商店街)
2018年3月14日城東地区の寺下通りを散歩していたら、千光寺の駐車場の枝垂桜の蕾が大きく膨らんでいました。もうすぐ咲くのが楽しみですね。また、千光寺のツバキの花が咲いています。とても綺麗です。お花や香りを楽しみながらゆっくりと散歩してはいかがでしょう。
戸島神社 旧村社
由緒沿革 正徳年中に村内に疫病が発生のため、大和三輪の社に参詣して、悪疫退散を祈願し、御分霊を奉還して、村内の大神山に勧請した。寛文六年国主森長継公が崇敬し、村内の有本山に社地を移し、社殿を改築した。貞享三年国主森長武公が、村内沢昌蒲山に社殿を建立した。元禄六年森長成公が、現在の国司に社地を替えた。明治六年村社に列格した。大正六年十一月十三日神鐉幣帛料供進神社に指定さられた。主祭神 大己貴命 伊弉諾尊 / 主要建物 本殿 幣殿 拝殿 神門 社務所 膳舎 神輿庫 / 摂末社 御先社 天神社 稲荷社 荒神社 若神(文:『苫田郡誌』)(2017年8月4日撮影)
2015年4月1日~15日恒例の「津山さくらまつり」の様々なイベントが開催されました。今日はあいにくの小雨が降っていますが、太鼓ショー&備州岡山鉄砲隊、宝蔵院流槍術、コスプレ、伝統芸能交歓会などが賑やかに行われました。また、美作のグルメと観光展もあり、津山ホルモンうどんを始めとして、津山そずり鍋、まほらプリン、津山じゃあじゃあ麺、津山黒豚餃子など津山の名物が沢山並んでいました。その他にも、お茶席やちびっこ広場など家族で楽しめる企画もありました。(2015年4月4日・5日撮影)
明石公園とは、六甲山系の西端、赤松山台地にのこる明石城跡を中心につくられた都市公園です。
城跡は、明治十六年五月、当時の明石郡内の有志によって公園として開園されました。のち皇室御料地に編入されるなどの経過をたどり、大正七年四月、新たに県立公園として発足しました。
園内には多くの樹木や植物が繁茂し、変化にとんだ丘や池、堀は周辺の自然環境と調和して美しく、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉と市街地にありながら野趣ゆたかです。
平成元年七月には「日本の都市公園100選の地」に、平成二年三月には、全国「さくら名所100選の地」に選ばれています。(文:明石公園HPより)(2017年11月26日撮影)
津山の春の風物詩、「津山さくらまつり」が2017年4月1日より市内各所で開催されますした。今年は4月1日~15日.まで開催され、楽しいイベントが盛りだくさんでした。郷土芸能ステージやお茶席、グルメイベントなど期間中は様々な催しがあり、取材した4月11日・12日はたくさんのお客様が来られていました。さくらの花も満開。また、ことしは桜の状態が良いため、4月16日まで津山さくらまつりが延長されました。
「太平記」と児島高徳 児島高徳は忍びの頭だった。
「天莫空勾践 時非無茫蠡」(天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず)
児島高徳は、後醍醐天皇宿泊の院庄の館に忍び込んで、このように読む十文字の詩を桜の木をけずって書きました。
これはその昔、中国で茫蠡と言う家来が、敵にほろぼされかけた勾践という王を大変な苦労のすえ助け、国を再興させたという物語を例にして、こういう忠義な家来もいないわけではありませんよと、天皇を励ましたものです。中国の古典に詳しかった天皇は、これを見てほほえまれたといいます。
明治に新劇を始めた川上音二郎らによって、これが芝居として演じられて評判となり、院庄と高徳の名前は、広く全国に知られるようになりました。戦前には、高徳は楠正成と同じ忠義なさむらいとして、教科書にもとりあげられ、文部省唱歌にもなりました。
学者のなかには、高徳は、『太平記』の作者のつくりばなしであるとか、『太平記』の作者ではないかという人もいれば、瀬戸内の海の武士団であったなどさまざまな見方や意見がありました。『太平記』に何か所も記述されている高徳は、何物であったのでしょうか。
近年は、地域の歴史が見なおされ研究がすすんできています。関連した人物の資料やさまざまな史実から高徳は、実在の人物であったことがはっきりし、児島あたりの山伏をひきいる忍びの頭であったと、されています。