県立明石公園と明石城

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 明石公園とは、六甲山系の西端、赤松山台地にのこる明石城跡を中心につくられた都市公園です。
城跡は、明治十六年五月、当時の明石郡内の有志によって公園として開園されました。のち皇室御料地に編入されるなどの経過をたどり、大正七年四月、新たに県立公園として発足しました。
園内には多くの樹木や植物が繁茂し、変化にとんだ丘や池、堀は周辺の自然環境と調和して美しく、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉と市街地にありながら野趣ゆたかです。
平成元年七月には「日本の都市公園100選の地」に、平成二年三月には、全国「さくら名所100選の地」に選ばれています。(文:明石公園HPより)(2017年11月26日撮影)

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本丸跡(巽櫓、坤櫓/国の重要文化財)

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明石城の築城
 元和三年(1617)小笠原忠政(のち忠真)が信濃松本より明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上城に入ったことから明石藩が生れた。
 現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する備えとして、藩主小笠原忠政に新城の築城を命じたことに始まる。秀忠は姫路城主であった本田忠政の指導を受けるよう命じ、3ヵ所の築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
 石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二ノ丸等の城郭中心の石垣、三ノ丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり、幕府より派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。幕府直営工事は、本丸、二ノ丸、三ノ丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。

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 普請を終え、同年九月から藩主小笠原忠政により、櫓、御殿、城門、塀などの作事(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城となった伏見城及び自領内の三木城などの資材を用いて建てたとされている。創建当初の坤櫓については次の史料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け、移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」『笠系大成付録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。
 築城当時の明石城は、本丸に御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。(文:明石城の歴史パンフレットより)

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巽櫓(たつみやぐら)
 本丸の南東端に築かれた三層の櫓である。桁行き5間(9.09m)、梁間4間(7.27m)、高さ7間1寸(12.19m)の隅櫓で、妻部を東西に置く入り母屋づくりである。

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園内には各種運動施設がととのい、スポーツ、レクリエーションに利用されています。

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↑ 坤櫓(ひつじさるやぐら)/国の重要文化財
 坤櫓は、天守閣が造られなかった明石城では最大の規模をもつ櫓である。天守台のすぐ南にあり、天守閣に変わる役割を果たしたとみられる。桁行6間(10.90m)、梁間5間(9.09m)、高さ7間2尺9寸(13.60m)、の入り母屋づくりで、妻部を南北に向け、棟の方向が巽櫓とまったく異なっている。
昭和57年の大改修で、構造上、他から移されたものであることが明らかになり、伏見城からの移築説が裏付けられた。

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坤櫓/国の重要文化財

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坤櫓には丁寧な説明板がありました。        明石城絵図

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播州明石図                    明石城絵図

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本丸跡にはヤマモモの大きな木が沢山植えてあります。メス木には6~7月ごろ紫赤色の甘酸っぱい実がなり、四国や九州では果物として食べます。関東や中部地方では庭木としてうえます。(説明板より)

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櫓と反対側に行くと堀がみえます。

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明石城武蔵の庭園

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現地で頂いたパンフレット