『太平記』の物語からできた作楽神社と児島高徳
「太平記」と児島高徳 児島高徳は忍びの頭だった。
「天莫空勾践 時非無茫蠡」(天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず)
児島高徳は、後醍醐天皇宿泊の院庄の館に忍び込んで、このように読む十文字の詩を桜の木をけずって書きました。
これはその昔、中国で茫蠡と言う家来が、敵にほろぼされかけた勾践という王を大変な苦労のすえ助け、国を再興させたという物語を例にして、こういう忠義な家来もいないわけではありませんよと、天皇を励ましたものです。中国の古典に詳しかった天皇は、これを見てほほえまれたといいます。
明治に新劇を始めた川上音二郎らによって、これが芝居として演じられて評判となり、院庄と高徳の名前は、広く全国に知られるようになりました。戦前には、高徳は楠正成と同じ忠義なさむらいとして、教科書にもとりあげられ、文部省唱歌にもなりました。
学者のなかには、高徳は、『太平記』の作者のつくりばなしであるとか、『太平記』の作者ではないかという人もいれば、瀬戸内の海の武士団であったなどさまざまな見方や意見がありました。『太平記』に何か所も記述されている高徳は、何物であったのでしょうか。
近年は、地域の歴史が見なおされ研究がすすんできています。関連した人物の資料やさまざまな史実から高徳は、実在の人物であったことがはっきりし、児島あたりの山伏をひきいる忍びの頭であったと、されています。
『太平記』の物語からできた作楽神社
作楽神社は、国の史跡となっている院庄の守護館跡にあります。江戸時代に森藩の家老長尾勝明が、児島高徳の天皇につくした心をたたえ、石碑を東大門あとに立てました。
幕末に尊王思想が高まってくると、国学者の道家大門らが運動を起こし、津山藩の援助もあって、1869年(明治2)作楽神社を建てました。その後、天皇中心の国家となり、作楽神社は大へんもてはやされ、たくさんの募金によって、大正時代にほぼ今の姿の神社になりました。
祭神は後醍醐天皇と児島高徳であり、『太平記』の物語から生まれた神社として津山の名所になり、今も多くの観光客が訪れています。
※過去取材(第9回 院庄たかのりまつり)(作楽神社と後醍醐天皇)(作楽神社のカキツバタ)(作楽神社とアヤメの花)(作楽神社のさくら)
史跡 院庄館跡 国指定史跡(大正11年3月8日指定)
鎌倉時代に守護職(大名)の館の東大門があった跡。
児島高徳像
忠義桜
1 桜ほろ散る院の庄
遠き昔を偲ぶれば
幹を削りて高徳が
書いた至誠の詩(うた)がたみ
2 君のみ心安らかれと
闇にまぎれてただ一人
刻む忠節筆の跡
めぐる懐古に涙湧く
「天光勾践を空しうするなかれ
時に范蠡なきにしも非ず。」
3 風にさらされ雨に濡れ
文字はいつしか消えたけど
つきぬほまれの物語
永久(とわ)に輝く花のかげ
(文:津山市教育委員会発行『わたしたちの津山の歴史』より一部抜粋)(2017年9月18日撮影)