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〔谷崎潤一郎〕今田屋旅館へ移る。(速日神社前)

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▲ここで(速日神社)谷崎潤一郎さんが家族で写真を撮っている。
現在この川では鯉が泳いでいて、下流では今でもシジミが採れるそうです。(2012.5.10取材)


昭和20年 12月29日 城内の今田屋旅館へ移る。
昭和21年(1946) 1月 1日 渡辺明氏が夥しい北海道の土産を持ってくる。 
1月 30日 津山の闇市に行き、今津屋橋南で1パイ5円のぜんざいを食べる。   
3月 6日 刑部に疎開していた内田巌画伯が逗留し、谷崎の肖像画を描く。
3月16日 京都へ引き上げるために上洛する。
5月 末 水島宅で送別会をしてもらい、家族ともども京都へ帰る。
8月初め 再び勝山に来て今田屋旅館で「細雪下巻」執筆、荷物を整理して勝山を離れる。


小野はるさんと何かあったらしく、今田ツネさんの所(もと今田屋旅館)に引っ越した。(2階が8畳3間と6畳6間を全部借り切って執筆していた。)
(文:郷土博物館)

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〔谷崎潤一郎〕水島呉服店さんとのエピソード

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 水島節子さんからお聞きしました。「勝山には、こっくりさんに聞いてから来たそうですよ。終戦前に来られたときは着物を着流しで歩いていたので当時は珍しく、また、おいしい物が好きな方だったそうです。」
 「ここからピアノの音が聞こえたので、谷崎さんが尋ねて来られたのが最初で、その後、姑がご馳走を作っておもてなしをしていたようです。また、谷崎さんはここの2階でも時々執筆していたようで、子どもが変なおじさんが来たら、だまらんといけん!と言っていたそうです。」今は息子さんの代で水島呉服は止めて司法書士事務所になっています。


 節子さんの姑で故水島芳子さんが谷崎一家を助けたことは有名です。
「水島家に谷崎さんのお気に入りの中之庄谷美智子さんが居たことも大きな要因ですが、水島芳子さんという心の大きい人が居なかったら勝山での谷崎家は随分困ったには違いない。」と見せていただいた雑誌コピーに書かれてあった。
食料だけではなく、水島芳子さんの太っ腹な大らかさが谷崎家に貢献したのです。(2012.5.13取材) 谷崎潤一郎とは


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〔谷崎潤一郎〕小野はるさんの離れに落ち着く

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昭和20年(1945) 5月15日 新聞記者で月田出身の岡成志の勧めで津山市八子の松平別邸に疎開。この間、岡氏は死去する。
6月 3日 岡未亡人から勝山に貸間があると知らせてくる。
6月 4日 土井武氏の案内で新町の小野はる氏の離れに決める。
7月 7日 勝山に着き、新町の小野家離れに谷崎夫婦と娘が入る。
後に妻松子の妹2人、松子の従兄弟らも疎開して、近くの呉服屋2階に住む。「細雪」の執筆に取り組む。原稿の写しを野崎益子女史が頼まれた。
食料の調達には福谷の須田伸治郎氏の世話になる。
中町の呉服店水島喜八郎氏と深く交流した。
下町の醤油業河本はな氏とも交際した。
8月13日 永井荷風が谷崎を訪ねてくる。15日には帰る。(疎開日記より)


旦酒店さんから伺ったお話

 勝山は水の綺麗なところで、昔は井戸水が綺麗だったので豆腐と酒を造っていました。酒屋も2軒ありましたが、今は辻さん1軒だけとなりました。それに宿も9軒ありましたが、今は寝泊りだけで2軒しかないのです。
 谷崎さんが勝山に来られたときの姿は、ボロボロの汚い着物だった。それに、沢山の原稿の入った「こおり」を大八車に積んできて近所の旅館の土蔵を借りて荷物を入れたとのこと。また、谷崎さんは金が入ったら大盤振る舞いをしていたそうで、普段は午前中執筆、午後は奥さんと川沿いを散策していたそうです。
 エピソード:小学校の教師になるために勉強していた野崎ますこさんは書が上手だったそうで、谷崎さんの書生を務めることになり、テストを受けたのですが、そのテストがユニークだったそうです。なんでも、奥さんとて書斎には上げないのですが、野崎さんを先に上らせ下からみて、足袋の白さ(足が綺麗かどうか)を見ていたそうです。勿論、野崎さんは無事合格して書生をつとめたそうです。(2012.5.10取材)


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谷崎潤一郎と勝山の町

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都わすれの記(2012.5.10取材)
勝山町は旭川の上流なる山峡にありて小京都の名ありといふ、まことは京に比すべくもあらねど山近くして保津川に似たる急流の激するけしきの嵐峡あたりの面影なきにしもあらざればしか云ふにや、街にも清き小川ひとすぢ流れたり、われらは休業中の料理屋の離れ座敷一棟を借りて住む、二階の六畳二間を書斎にあてゝ故帝鴻銘翁が短冊に書したる有 人對 月數 歸期 の七字を柱に懸けたるは、此の句恰も今のわが身にふさはしければなり、あゝわれ齢六十路におよびてかゝる邊陬に客とならんとは、げに人の運命ほど測り難きはなし
 なつかしき都の春の夢さめて
  空につれなき有明の月
 まどの戸をあくれば入り来やまざとの
  人に馴れたる雀うぐひす

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津山に谷崎潤一郎、東山魁夷が来ていた。

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(2012年6月16日取材)愛山松平家墓所の古写真

 津山市田町にある『寿司 よしひら』の得能さんのお宅には、貴重な物が沢山あります。そもそも得能家は秀康を祖とする越前家の第四代目の宣富公が、四国伊予の国(予州)から津山藩の初代として津山に入ってきた元禄11年(三代目の光長の時代に松山にいた)に、殿様に伴って古参取立てで来たのがルーツだそうです。

☆得能家(寿司 よしひら)に今なお伝わる資料が残っている。その中の一部を抜粋!

 得能良平さんの祖父が、松平家務所に家族で住み宕々庵の維持管理全般をしていた時、松平氏の親族 渡辺明氏(渡辺明氏は松平氏の弟であるが、渡辺家に養子に行っていた。谷崎婦人の松子さんと渡辺婦人の渡辺里子さんは姉妹)の縁で谷崎潤一郎が津山にやって来た。その時の『備忘録』が残っている。

 また、得能家(現よしひら)に東山魁夷が訪れていた。その他地図や雑誌、写真など諸々の資料。

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絶滅危惧種の「サカツラガン」が津山に来たよ!

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2013年1月5日の吉井川に架かる城見橋の右岸側の河川敷で、「体長60cmを超える大きな鳥、羽を広げると1m50cm位になるだろう珍しい鳥が群れていたので撮影しました。とても人なつこくて2m位まで近づいても逃げなかった。」そうです。(情報下さったのは津山市小姓町にお住まいの小川宏さん)
 詳しいことが解らないので、自然と人間をテーマに、社会的視点にたった「自然界の報道写真家」として活動中の宮崎 学さんにお問合せをしましたら、
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「サカツラガン」です。
日本には昔から渡ってきたようですが、数は少なく、近年は非常に珍しいガンになっています。今冬は、20数羽で飛来したというようなことがネット情報に流れていました。
 動物園などでみられる「ガチョウ」ですが、あれはこのサカツラガンを家禽化したものです。サカツラガンは美味しいので、世界的にかなり乱獲が進んでいるようです。
絶対的に数が少ないので、日本にやってくるのも稀になってしまったようです。
いずれにしましても、幸運な出会いをしたと思います。
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道祖谷山 宝蔵寺(津山市加茂町)

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宝蔵寺
 当寺は斉野谷にあって、道祖谷山宝蔵寺と号し、天台宗比叡山延暦寺の末寺であり、本尊は大日如来である。貞観二年(860)慈覚大師円仁の開基と伝えられる。文化十二年(1815)頃には、無住寺で本堂四間四面南向、庫裏四間半八間、鐘堂、長屋、鎮守山王権現小などを残すのみであったが、「東西百間余、南北二百間余」の広い境内や、東林房、安養房、惣門などの旧跡が残存し、かつての大寺の面影を残していた(『東作誌』)。
二尺七寸の本尊大日如来坐像、脇立の不動明王と毘沙門天はいずれも作者不明であるが、文化十二年(1815)に『東作誌』に記録されているものであろう。(加茂町史より)2012.12.13取材

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水原古墳 伝黒姫塚(旧勝北町)

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黒媛伝説
 黒媛は吉備の海部直の娘で、容姿端麗であったために都に召され、仁徳天皇の寵愛を受けながら、皇后の磐媛の嫉妬にあい故郷である山方(形)の地へ帰された。その黒媛を慕って仁徳天皇がわざわざ草深い山方(形)を訪れ逢瀬を重ねたという古代のロマンスが「古事記」に載っています。
 この伝説は、八幡神社の由緒にも記されています。そして、この水原古墳は「黒媛」の墓(黒媛塚)だとされており、他にも山方(形)地内には、黒媛が住んだ所といわれる地名などが今も残っています。古歌にも仁徳天皇が山方(形)の地に黒媛を訪ねたときに詠んだ歌、黒媛が返歌を詠んだものなど、この地にゆかりの深いと思われるものが少なくありません。
昭和12年4月、この古墳が発掘されたことは勝北町誌にも掲載されていますが、当時の出土した陶棺などは、現在、東京国立博物館に保管されています。2012年10月25日取材(文:看板より)

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金峯山修験本宗 長命山 多寶寺(旧勝北町)

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金峯山修験本宗 長命山 多寶寺
 往昔の吉備中山は和歌題詠の名勝であった。その中山の麓山形の地に、長命山 多宝院とと唱へる修験道場があり、慶長年中津山の城主森美作守忠政が、津山城艮の鬼門除祈願所として、陣具を奉納せられたとの傳があり、現在津山市大谷の石山摩利支天も此時に祀られたとのことである。昭和年中より文化年代に渉っての住職、七代目大僧都宗春、八代目権大僧都宗栄の二代は、相続いて苦行を修し、厄難除けと併せて、女人安産に霊験顕著であった。その為め世人の崇敬を受け、隆盛の道場であったが、慶応年中には無住となり、堂宇破損ついには風の為め倒壊するに至ったのである。當時堂内にあった佛像はこれを字水原に移し、小堂を建てて保存したのであったが、寺跡は明治以降山林と化し、其後周辺は開墾されて畑となり、僅かに寺号のみが傳へられたのであった。近年に至って宗教法人法附則第五項の規定によって、県知事の認証を得、昭和二十七年十一月十三日登記手続きを完了、寺号を長命山 多宝寺と号し、旧時の遺跡である、山形東俗称宇根の地に堂宇を建立、金峰山修験本宗に所属し、住職は管長の任命によって、大阿闇梨僧都孝範が就任し、再來天下泰平万民豊楽の祈祷を執行、毎朝鳴り渡る法螺貝の音は、那岐連峰にこだまして、勝北平野の静空を流れ、八万四千の煩悩の夢を覚して居るのである。(文:新野村史より)2012.10.27取材

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