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取材記事内を検索ワード「山」で検索した結果,3340件の記事が見つかりました。

福井 新宮城に関わる伝承の真宮神社

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福井 新宮城(しんぐうじょう)に関わる伝承の真宮神社(しんぐうじんじゃ)2012.1.15取材
 福井より大崎に向かう道中、土居の公会堂の周辺は、花畑がありきれいに公園化されている。そこに、真宮神社の立派な石造りの鳥居が見られ、その鳥居には、「明治33年10月」と刻まれている。また、鳥居の側に細長い石に刻んだ歌碑があり、「幾千代の栄を古めて 国安らふ可みの御前に植し常盤木 明治19年9月11日 安藤直清 61才」とある。惜しまれることには、常盤木と詠まれた松は、株だけ残して今は存在していない。
 鳥居をくぐり、広戸川に沿って木立の参道を百数十メートルほど下ると、真宮神社の境内に至る。神社は、新宮山の南山麓の林の中に鎮座し、背後に巨大な岩壁がそそり立っており、一見して古代の磐座を想起させる環境にある。新宮城の築城以前から、新宮山が「神の山」と呼ばれていた所以であろう。

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田熊 南北朝動乱時代の山城 下木の岩黒城址

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 ▲田熊(たのくま)南北朝動乱時代の山城 下木(したぎ)の岩黒城址(いわくろじょうし)
 広戸川を渡り、下木の集落から東の山手に上ると、高い所に公会堂がある。この公会堂の上の平坦な丘陵地が、岩黒城址(いわくろじょうし)と言われている。
 今は、全く畠となっているが、ここからは、田熊や野田(勝北)の水田地帯や日本原高原の景色が一望できる。一方、田熊の水田地帯から城址を眺めると、平地に突き出た山裾の丘陵を利用した山城であることがよく分かる。
岩黒城址については、美作古城史(三)に次の記述がある。
 「津山市田熊(元勝田郡広野村)に岩黒城址があり。井上蔵人(いのうえくらんど)の居跡と伝えられ、東作誌には、古城 岩黒城 城主井上氏今は百姓持林となる。堀切の跡纔(さい=わずかに)見ゆ 少し切りならしたる跡ある而巳(のみ)なり 云々と載せてあり、古城麓に現存する井上氏がこの城の関係者として伝えられている。」(2012.1.9取材)

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津山ちぎり絵サークル展

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平成24年1月13日(金)~1月16日(月)まで、第33回津山ちぎり絵展(津山サークル主催)が、津山市立文化展示ホール(アルネ津山4F)でありました。どの作品も、和紙で作ったと思えないほどの力作でした。また、和紙の見本が展示してあって、和紙にも色々と種類があるのを知りました。日本の和紙は暖かくてやっぱりいいですね!

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堀坂の「釜の口用水」トンネル

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▲釜の口暗渠(2012.1.7取材)
 釜の口暗渠は、掘坂上の稲荷山の下を暗渠で掘り抜き、釜の口井堰から加茂川の水を引いて水田の54町歩に潅漑した水の隧道です。これは作北の水の青の洞門(勝田郡誌)といわれています。文政5年(1882年)2月に起工し翌年の3月に完成したもので、その延長は54年間(約100メートル)幅7尺(口径約2メートル)高さ9尺(一部)の規模を有し、それまで北へ水路を掘って水を逆流させて潅漑水にあてていました。工事完成により掘坂水田が、干害の憂いから救われて増産の役割を果たしました。
 建設当時、常陸国土屋藩(茨城県土浦市)の支配下にあった堀坂は、度重なる洪水により井堰の流失に悩まされており、山本吉次郎、曽根興右衛門、左子藤兵衛、曽根源吉、杉田健次郎、本郷甚臓らが近長の名代官亀田清助に請い、銀26貫匁を借り受け金を用意し、代官は和算の大家であった田熊の中村周介に相談しました。
 周介は難問解決のため岩山を利用した暗渠用水を設けることを思いつき、若い甥の中村嘉芽市(17歳)に工事の測量設計をすべて託しました。岩山を両側からくり抜く工事は、藩と地元農民の全面協力により通水したものです。(文:津山市 堀坂町内会発行 わがまちの歴史より)

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田熊の赤ひげ先生【田熊の医師井上先生の頌徳碑】

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田熊 明治初年恩徳の医師井上先生頌徳之碑
 通常、植月線と呼んでいる道路=主要地方道津山大原線を、河面(こうも)から田熊(たのくま)へ向けて行くと、田熊分に中鉄バス八ヶ原駐車場がある。この付近の向かって道路右側横に、医師井上先生の頌徳碑(しょうとくひ)が、建立されている。
 作州の場合は、幕末から明治の初めにかけて医者は、ほとんどが大阪や京都などへ勉学に赴(おもむき)き、苦労してその資格を得ているが、その割りに報われず、まさに「医は仁術(じんじゅつ)」として、奉仕の生活を余儀なくされた。 

 田熊のある老人の話によると、自分の祖父は医者であったが、家族の者に間違っても、子孫は医者にするなと遺言を残して亡くなったという。その話を要約するならば、懇意にしている農家の嫁さんが、かなりの重い病にかかった。何としても治療を思い、当時、長旅をかえりみずに京都まで良薬を求めて行き、その後も献身的な面倒をみた。やがて、薬石の効があって健康を回復し、共に喜んだのはよいが、治療代の報酬はというと、年の暮れに八ヶ原池で捕れたカモ一羽だけだったそうである。医者をしておれば、身代をつぶすというわけである。この話は、一方の庶民の側からみると、それだけに当時の医師はありがたい存在であった。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)

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城東竹灯籠年越しまつり2011~2012

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2011年大晦日に大信寺において、昨年に引き続き「城東竹灯籠年越しまつり」が開催されました。このイベントは地区の方々の手作りの灯籠が並べられ、古い町並みを温かい灯りで浮かび上がらせる幻想的なイベントです。(昨年の様子はこちらから
また、大信寺には、放浪の陶工『浅本鶴山』のお墓があります。浅本鶴山は放浪の陶工、南蛮焼の名手として高く評価されています。大信寺には自然石に「陶工」と刻んだユニークな墓があります。また、本堂の扁額が「広開浄土門」と陶器製の文字で作られているのも彼の手によります。

鶴山は明治18年(1885)津山で生まれ、2歳で陶工の浅本房吉の養子になりました。放浪、修業の後、昭和11年頃津山に帰り作陶し多くの作品を残しました。

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津山市カウントダウン花火in小田中

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毎年恒例となった津山市小田中の年忘れ花火大会が行われました。(昨年の様子はこちら
2011年12月31日 (土)午後10時~ 津山市小田中笠松地区にて行われました。昨年は雪の中でしたが、今年は暖かな年越しとなりました。また、今年の花火は例年より少なめでしたが、その分来年は多く上げるそうです。この日は、飲み物・そば・豚汁・ぜんざい・雑煮・焼き芋などがふるまわれ、大勢の皆さんが舌鼓。私も沢山ご馳走になりました。笠松の青壮年会を始め、近隣の青壮年会や町内のみなさんご馳走様でした。お陰さまで身も心も暖かい年越しとなりました。

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佐良山のふしぎ

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神南備山に昇る朝日(嵯峨山より)
押渕・下種・荒神山を経由して種から皿に至る旧出雲街道には後醍醐天皇にまつわる史跡が点在しますが、その中で「御駐輩場」と呼ばれる場所があります。ここには後醍醐天皇が隠岐島にご配流の際「輩」を止められ休まれた場所として、種地区の人たちの手で整備され、立派な歌碑が建てられています。

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つやま自然のふしぎ館【貝編】

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アオイガイ(カイダコ)(2011.8.19)
2枚合わせると葵の葉に似ているところからこの名が付いた。この貝の中にはタコ(雌)が入って産卵、保育する。(信じられますか?)世界中の熱帯、温帯の海で漂流しながら生息している。
(鳥取県浜村海岸で高木文三氏採取、寄贈)その他、つやま自然のふしぎ館には、沢山の貝の殻がありますよ!いとつひとつ、見ていると自然って不思議がいっぱいだなぁ~と思います。

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「美作ローカル鉄道」2012年限定カレンダー

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古い木造駅舎が数多く残り、のどかな風景が広がる因美線沿線。「津山扇形車庫」「みまさかスローライフ列車」などでご紹介。その貴重な風景が2012年フォトカレンダーになっています。しかも、限定販売中!壁掛けタイプと卓上タイプの2種類があり、津山観光センター等で販売されています。
詳細はこちら↓
http://owowow.net/photo/top_1/calendar11/img1/slowlife.pdf

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