浮田神社(上紺屋町)
上紺屋町の町内神。浮田の名の由来は、不詳。
ここの道路の北側に稲荷社と金比羅社が把つであったが、明治の頃、町内の鳥羽屋に肥られていた御大師様と合わせ三体を並べて大師堂と称し町内でお記りするようになった。その歴史は明らかでないが、古くからのものと思われる。
所在:津山市上紺屋町 祭神:宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
創建:不詳 祭礼:秋祭10/第三日曜 (文:津山城下町まちなかお社巡りマップ 津山まちづくり本舗より抜粋)(撮影2017年4月23日)
上紺屋町の町内神。浮田の名の由来は、不詳。
ここの道路の北側に稲荷社と金比羅社が把つであったが、明治の頃、町内の鳥羽屋に肥られていた御大師様と合わせ三体を並べて大師堂と称し町内でお記りするようになった。その歴史は明らかでないが、古くからのものと思われる。
所在:津山市上紺屋町 祭神:宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
創建:不詳 祭礼:秋祭10/第三日曜 (文:津山城下町まちなかお社巡りマップ 津山まちづくり本舗より抜粋)(撮影2017年4月23日)
坪井町の町内神は伏見稲荷より文政4年(1821)に勧請した髙守神社である。
髙守神社のある場所に髙砂屋金次郎という人が住んでいた。その屋敷神とし記られていたものが町内に引き継がれている。以前は髙森神社と称していたのを、明治24年(1891)に社殿が造営されたのを期に改めた。表通りからは見えずあまり知られていないが、きれいな町内神である。(文:『津山城下町まちなかお社巡りマップ』 津山まちづくり本舗)(撮影:2017年4月23日)
2017年10月22日(日) ~29日(日) 「第55回 美風盆栽展」が津山市山下の津山城(鶴山公園)内の鶴山館で開催されています。2017年10月24日の台風一過の日に拝見してきました。会場内のとても立派な盆栽に驚き、小さな枝に大きく実った柿を見て随分丹精を込めて育てられたんだなぁ~と感動しました。また、鶴山館の外では即売などがあり、鉢植えがずらりと並んでいました。茶道裏千家の淡交会津山支部の抹茶のお接待もありました。ちなみにオープンの日10月22日は、接近してくる台風の為「津山まつり」の徳守神社と高野神社のお祭りのだんじりやお神輿の出動が取りやめになったくらい近年にはない雨や風の強い日となりました。(2017年10月24日撮影)
新屋敷の町内神として荒神社がある。左右にお末社三社を祭把し、由緒は不詳。
新屋敷の侍屋敷は約52年存続し、元文4年(1739)に廃された。文人画家の広瀬台山も文化年間にこの界隈、安岡町の裏屋敷(墓碑には新田村とある)で晩年を過ごしたという。(文:『津山城下町まちなかお社巡りマップ』 津山まちづくり本舗)(撮影:2017年4月23日)
市内の稲荷神社を探している途中で見かけた伏見稲荷神社です。傍らの社務所に貼ってあったのは「当神社神殿には稲荷五大神の宇迦之御魂大神を主神に、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神の五柱をお祀りしてございます。」です。
(2017年10月9日撮影)
日限り地蔵
『むかし、皿川に琵琶が渕という渕があった。ここでは、毎年身投げをする人があとをたたなかった。なんとかして身投げをさせないようにしようと相談し村の人たちは、とむらいをしないという立札を立てた。その後は身投げをする人がぱったりといなくなった。喜んだ村の人たちは、そこに、延命地蔵をまつった。人々はいつとはなしに日限り地蔵とよぶように成った。』
ところがこの地蔵が部落の境にあったので、けっきょく二つに分けてまつることにした。
今の佐良神社のがけ下にあるのが本家で、すこし南の平福の道路ぞいにあるのが分家だといわれている。いつのころからか「日限り地蔵にお願いすれば、子どもがさずかるそうじゃ」といううわさが広まっていった。評判を聞いて、子どものほしい人がつぎつぎにおまいりするようになった。
お祭り当日には、子どもの健やかな成長と交通安全を祈って、ご祈とうをお願いしております。
ー岡山の民話よりー(文:現地説明板より)(2017年9月30日撮影)
主祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命、例祭:十月十日、境内地:七九二坪、主要建物:本殿・幣殿・拝殿 由緒沿革 創建年月等不詳。元扇宮と称し、大谷八伏の地にあり、社領八町歩を有し、地方における有力な神社である。天文年中尼子晴久の乱、永禄年中凶徒の乱により、古證文宝物等悉消失した。慶長八年森忠政公入封築城後塞神の処より大谷八伏に向けて大砲の訓練を行い支障があるので、森長継が、寛永十二乙亥年現在地に移転し、青木神社と改称した。明治五年村社に列した。(文:『岡山県神社誌』より)(2017年10月9日撮影)
2017年10月15日(日)津山まつりがスタートした。東の「大隅神社」の還幸は、雨の為イーストランドではなく、玉琳公会堂がお旅所になっていました。また、出動だんじりは、兼田・川崎・太田、玉琳・東松原・古林田・東新町・西新町・上之町7丁目・中之町・勝間田町の11台の予定でしたが、本まつりは残念ながら雨の為、太田・川崎・兼田の3台になりました。催し会場のイーストランド駐車場であったイベントの時間も雨の為少し早まって行われていました。関係者の皆様、雨の中をお疲れ様でした。(2015年の祭の様子です。)
勝北町安井宇根にある大師堂は、通称庵と呼んでおり、真言宗の祖弘法大師の像を祀る堂宇で奥行二間半桁行一間半で大正元年に建て替えられ、そのご二度の修復をへて今日に至っている。
大師堂の建立の由緒は定かでないが、明治初期に毘沙門天が勧請されてから別名毘沙門さまと呼ぶようになった。
そこには、数本の石仏が並び、中でも中央の地蔵菩薩は美しい姿をとどめている。
天明、寛政年間、この地方に多くの石仏を遺した泉州の石工、松尾伊八らの手によって造られたのではなかろうか。天明年間は、天変地妖相次いで起き、国中の者は草の根、木の皮まで食い尽くし飢と病で多くの人が死んでいった過酷な時代であった。飢餓は、八年にも及び諸国の百姓は地獄の苦しみに喘ぎ、何に救いを求めようもない村の人達は、僅かな浄財を出し合い地蔵さんを建て死んでいった人々の供養と菩薩の慈悲にすがった。
安井庵文書を繙くと庵には、代々庵僧が寄寓していたことが伝えられており、天保時代より出羽の国の三九郎夫婦、生国因州の庵僧、旧浜田藩の松田佳次郎などの庵僧の墓が近くの草叢に眠っており、他国の人々を庵僧として温かく迎え入れた厚い人情を村の人々は今でも誇りに思っている。
大師堂のかたわらには大きな庫裡があって昭和二十五年に取り壊し今は、堂宇一つを残すのみとなった。
苫勝霊場二十五番札所の大師堂は、毎年桜の花の咲く頃、苫勝霊場めぐりの遍路で賑い村の風物詩でもあったが、今では知る人もだんだん少なくなり、毎月二十一日の大師の縁日に古老達によって念仏が上げられている。
(勝北町文化財保護委員平田安男記)(平成12年12月19日取材)
多禰神社(旧村社)、主祭神:天児屋根命、例祭:十月十日、境内地:四二二坪、主要建物:本殿・拝殿・社務所
由緒沿革 本神社創建年月由緒等不詳。もと春日神社、八幡神社、荒神社が各地に鎮座していたのを、元禄十二年十二月 村の中央の宮山の地に合祀して、多禰神社と改称した。
(文:『岡山県神社誌』より)(2017年10月9日撮影)