津山城外濠跡(津山市指定史跡)
かつて津山城には内山下と呼ばれる総曲輪があり、その外周を土塁と濠が囲っていた。明治の廃城以後、同20年(1887)頃までには土塁を崩して濠を埋め立て、内山下は市街地に組み込まれた。そのため、この総曲輪の区域で旧状をとどめる箇所はほとんどないのだが、京橋口桝形の土塁・石垣の一部と、宮川口~京橋口間及び二階町口の南北の濠の名残りとして水路が残っている。
かつて津山城には内山下と呼ばれる総曲輪があり、その外周を土塁と濠が囲っていた。明治の廃城以後、同20年(1887)頃までには土塁を崩して濠を埋め立て、内山下は市街地に組み込まれた。そのため、この総曲輪の区域で旧状をとどめる箇所はほとんどないのだが、京橋口桝形の土塁・石垣の一部と、宮川口~京橋口間及び二階町口の南北の濠の名残りとして水路が残っている。
2015年10月27日(火)美作の歴史を語る会主催の新見研修会があり参加して来ました。
新見市立新見美術館を皮切りに新見市内を散策。新見は津山藩との縁も深い所なのでとても興味深いところでした。その様子を遅ればせながらアップしました。
当日は、新見御殿町まち歩きガイドの会の大西様にガイドいただきました。
戸島神社 旧村社
由緒沿革 正徳年中に村内に疫病が発生のため、大和三輪の社に参詣して、悪疫退散を祈願し、御分霊を奉還して、村内の大神山に勧請した。寛文六年国主森長継公が崇敬し、村内の有本山に社地を移し、社殿を改築した。貞享三年国主森長武公が、村内沢昌蒲山に社殿を建立した。元禄六年森長成公が、現在の国司に社地を替えた。明治六年村社に列格した。大正六年十一月十三日神鐉幣帛料供進神社に指定さられた。主祭神 大己貴命 伊弉諾尊 / 主要建物 本殿 幣殿 拝殿 神門 社務所 膳舎 神輿庫 / 摂末社 御先社 天神社 稲荷社 荒神社 若神(文:『苫田郡誌』)(2017年8月4日撮影)
2017年9月10日(日)午後1時30分~3時、津山市教育委員会が実施していた、新津山国際ホテル建設に伴う埋蔵文化財発掘調査の調査成果の現地説明会が(第1回は2017年6月4日)行われました。
今回は近世の城下町における屋敷地を区画するためとみられる柱穴列や建物の基礎部分とみられる石垣などが確認されました。また、井戸の遺構も見つかりました。
由緒 本神社は弘安4年(1281)、郷士三樹左馬助が元弘の役に従軍の時、宇佐八幡宮に詣で武運長久を祈り、帰郷の際、同神社の御分霊を奉戴して現在地に祀った。宝永6年(1709)火災で炎上。天保2年(1831)再建して現在に至っている。明治6年村社に列した。大正12年神饌幣帛料供進神社に指定せられた。御祭神:譽田別尊、天照大御神、素盞嗚神
主な祭典 10月15日:秋季大祭、4月28日:春季大祭、7月14日:夏祭(文:岡山県神社庁HPより)(2017年6月11日撮影)
明石公園とは、六甲山系の西端、赤松山台地にのこる明石城跡を中心につくられた都市公園です。
城跡は、明治十六年五月、当時の明石郡内の有志によって公園として開園されました。のち皇室御料地に編入されるなどの経過をたどり、大正七年四月、新たに県立公園として発足しました。
園内には多くの樹木や植物が繁茂し、変化にとんだ丘や池、堀は周辺の自然環境と調和して美しく、春は桜、初夏は新緑、秋は紅葉と市街地にありながら野趣ゆたかです。
平成元年七月には「日本の都市公園100選の地」に、平成二年三月には、全国「さくら名所100選の地」に選ばれています。(文:明石公園HPより)(2017年11月26日撮影)
誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人誕生の地であり、建久4(1193)年に法力房蓮生が、師法然上人の命を受けて、生家を寺院に改めたものといわれています。
無垢橋は、この誕生寺境内を流れる片目川に架かる、長さ約7mの珍しい石造方丈橋です。橋の形状は、擬宝珠の付いた柄柱、丸く加工された高欄をはじめとして、木橋の材料をそっくり石に置き換えたように造られています。特に、桁の上に載せられたように見える丸太状の石は、高欄から外側のみの長さしかなく、明らかな装飾です。久米郡久米南町里方 (文:岡山県文化財保護協会発行『あなたの街の近代化遺産ガイドブック』より)
誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人誕生の地であり、建久4(1193)年に法力房蓮生が、師法然上人の命を受けて、生家を寺院に改めたものといわれています。
片目川の少し下流に架かる誕生寺橋は、橋長7mの小さな鉄筋コンクリート橋です。親柱上部の擬宝珠風の玉や、やや波打った高欄など、装飾的な橋に造られており、ユニークな存在です。(文:岡山県文化財保護協会発行『あなたの街の近代化遺産ガイドブック』より)(2017年9月15日撮影)
これは津山藩の学問所(文学所)として1870年(明治3年)に着工されました。場所は京町門の内側にそれまでにあった文武けいこ場の東側(現在の津山電報電話局のところ)で、翌1871年に完成され、従来のけいこ場とあわせて「修道館」と名づけられました。この時期は同年7月に行われた廃藩置県の直前であり、明治維新のあととはいってもまだ藩内の教育については藩が統轄しているときでした。
しかしその後、明治政府は廃藩置県を行うことによって全国に統一した行政が行える体制ができ、文部省を設けたり、1872年には学制を制定(学区制、就学奨励)したりして、近代教育制度を発展させていきました。修道館はこのような事情から完成して間もなく廃藩置県にもとづいて廃止され、のちの"鶴山館"にあたる建物は変遷する教育制度などと深くかかわりながら利用されてきました。それはだいたい次のとおりです。
亀甲駅(かめのこうえき)は、岡山県久米郡美咲町原田にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)津山線の駅である。駅近くに亀の甲羅のような岩(亀甲岩)があることから「亀甲」の名がある。
津山駅管理の簡易委託駅で、早朝・深夜を除いて出札窓口の営業がある。以前は携帯車発機により乗車券を発券していたが、現在はPOS端末による発券をしている。
亀をモチーフにした外観の駅舎が特徴的である。駅舎の屋根の上は、亀の頭の形をした時計(目の所)がある。(文:ウィキペディアより)(2017年9月15日撮影)