津山藩の学問世話掛かり鞍懸寅二郎

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  幕末、津山藩と幕府や朝廷の間で活躍した武士の一人に、鞍懸寅二郎がいます。
 寅二郎は赤穂藩(兵庫県)の出身でしたが、若いとき江戸で儒学を学び、津山藩の学問世話掛かりとなり、幕府や他の藩との交渉役などをつとめました。また改政一揆では、民衆の説得に当たり、一揆をしずめました。
 明治になり、徳川の親戚である津山藩は、朝廷の敵とみられましたが、寅二郎は藩内をまとめ、津山藩が新政府に従うことを、政府や周りの藩に伝えました。
 その後寅二郎は、藩の代表として活躍する一方、政府の役人として、廃藩置県などの仕事を進めていましたが、1871年、津山で何者かに殺されました。

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本源寺にある墓

小豆島と鞍懸寅二郎
 1864年、津山藩領だった小豆島の池田湾で、外国船に乗せてもらって見学していた蒲生村の漁師がイギリス人のピストルの弾に当たり即死しました。
 当時、日本は外国と貿易を始めていましたが、薩摩藩や長州藩と外国船との撃ち合いが起こるなど、外国にものが言いにくい状態でした。このようななかで、津山藩の代表として、幕府を通してイギリスと交渉し、洋銀200枚(約一千万円)を漁師の家族につぐなわせたのが鞍懸寅二郎です。
 池田湾の近くには、このことに感謝し記念した「恩澤の碑」がたっています。
(文:津山市教育委員会発行『わたしたちの津山の歴史』より一部抜粋)


 名は種夫、のち吉寅。字は山君、秋汀と号した。赤穂藩の下士に生まれたが、若き藩士にその才能を買われ、勘定奉行として藩政改革にあたった。しかし、守旧派の反対により、放逐の憂き目をみた。江戸での師塩谷宕陰の勧めと、母と相談の上文久元年(1861)津山に来た。はじめ香々美村の大庄屋、中島多右衛門宅に寄寓し、子弟に教鞭をとった。この時代に円通寺の勤王僧竺道契との交流が始まる。翌文久2年(1862)5月、津山藩に仕官がかない、学校世話並びに講釈を命ぜられる。
 この年、鞍懸寅二郎から中島太右衛門(号虬翁)宛に出した書簡には、院庄で起きた事件で自刃した母子の貞烈純孝を顕彰するための建碑に尽力している話題が記されている。同年10月からは、国事周旋掛として上京、攘夷派の人物との交友が増す。元治元年(1864)の小豆島事件を解決させるも、藩内において不遇なる立場に置かれた。しかし、維新に際してはまたその手腕が代われ、慶応3年(1867)12月8日、将軍慶喜をはじめ在京の諸侯および諸藩の重臣が御所に招集された時も、藩を代表して出席した。明治元年(1868)、新政府の参与となり、同2年には津山藩の権大参事兼民部省出仕として、新たな藩政と国政の兼務する繁多な職務にあった。そして、その2年後の明治4年(1871)、民部省出仕を命ぜられ、兼任した。廃藩置県で急きょ帰国。8月12日、津山椿高下において暴漢によって短銃で暗殺されたが、その犯人は遂に特定できなかった。(文:『鞍懸寅二郎』より一部抜粋)


鞍懸吉寅
 吉寅は山君、通稱は寅二郎、秋汀又一に模稜と號す。播州赤穂の藩士なり。江戸に遊び鹽谷宕陰(しおのや とういん)の門に學び最も詩文に長す。香々美圓通寺の道契學徳並に高く、吉寅最も親交あり。安政中浪士と為り。此地に遊び留って村夫子となる。當時津山藩は年々富籖を城下に行ひ、以て度支の用を辨ず。吉寅之を目撃し、偶然の輸?を以て射倖のこころを長じ、延ては民生の基礎を覆へす所以なるを痛感し、富籖句さ論一篇を草す、議論剴切時弊を痛撃して忌憚なし。藩史覺醒して其事止。幾くもなく抜擢せられて、儒員となり藩政の改革に努む。吉寅常に勤王の志篤く、皇室の式徴を慨けり。文久二年國事周旋掛となり、上京して諸藩の志士と交り、劃策する所多し。元治元年幕府征長の令下すや吉寅藩主に上書して幕府に建白せしむ。明治二年權大参事となり、三年民部省出仕を兼ぬ。四年津山に歸り凶徒に狙?せられて斃る。時に年三十八。朝廷死を悼み祭祀料を賜ふ。後靖國神社に合祀される。明治三十一年從四位を贈らる。

明治四年七月十四日、廃藩置縣。

歴代地方長官
津山縣
現苫田郡内には當時津山縣の外倉敷縣に屬したり地ありしかども此處には唯津山縣のみに就て記載す。

大参事  渡部兼道  明治四年七月十四日
参事   海老原景員 同上
權大参事 鞍懸吉寅  同上
權大参事 小澤朝泰  同上
權大参事 宮田德?  同上
權大参事 昌谷千里  同上
(文:『苫田郡誌』より抜粋)