一の矢橋(東一宮)
昔、中山神社の「流鏑馬」の神事が行われた時、この橋から一に矢を放っていたと伝えられる。(難波酒造前の橋)。なお、後に人の往来が多くなり、この儀式は一宮構えの西側通路にて行われるようになった。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)
昔、中山神社の「流鏑馬」の神事が行われた時、この橋から一に矢を放っていたと伝えられる。(難波酒造前の橋)。なお、後に人の往来が多くなり、この儀式は一宮構えの西側通路にて行われるようになった。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)
自由民権と産業振興で活躍した立石岐 ~作州発展につくした時代の先覚者~
幕末から明治時代のはじめにかけては、開国の影響と新政府による近代化への改革で、世の中が大きく変わりつつありました。そのころ作州(美作地域)で、近代産業を発展させようと立ち上がったのは、豪農といわれる人たちでした。明治11年(1878)、立石岐、中島衛、内田饒穂、安黒基たちが、養蚕・製糸業をすすめようと「共之社」を結成しました。さらに彼らは、岡山県議会議員となり、自由民権運動を積極的にすすめました。
彼らの運動は「豪農民権」といわれていますが、その中心となって活躍したのは、立石岐でした。岐は、国会が開設されると、最初の議員となりました。その後も、中国鉄道の建設や学校教育の推進、キリスト教の伝導などで活躍し、作州の産業・文化の発展に大きな業績を残しました。
明治33(1900)年から昭和37(1962)年津山市南新座に生まれる。
本名は齋藤敬直(さいとうけいちょく)。33歳の時、歯科医だった三鬼は患者達のすすめで俳句を始める。この時から使用したペンネームが「三鬼」で「サンキュー」をもじったものといわれている。
35歳で代表作の「水枕ガバリと寒い海がある」を発表し新興俳句の有力な作家として認められたが、戦争一色となる社会情勢の中で、新興俳句は内容が革新的であることにより弾圧をうける。
終戦後、俳句を再開した三鬼は、近代文学としての俳句の可能性を求め、俳句の復活を志した山口誓子とともに昭和23(1948年)「天狼」を創刊するなど俳句の復興に尽力。また、敗戦直後の混乱した時代に俳人が俳句で生計を立てていけるようにと現代俳句協会を創立。句集として「旗」、「空港」、「夜の桃」、「今日」、「変身」がある。
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2017年3月5日「津山城下町雛めぐり」の中で城西地区で行われる「城西雛めぐり」に行って来ました。
当日は朝から大勢の老若男女が「作州民芸館」につどい楽しそうに鶴山桜太鼓の演奏に聞き入っていました。小さな子どもが太鼓に合わせて踊っている姿や賑やかな声がして微笑ましいです。無料ふるまいの豚汁に舌鼓を打っている方や、作州民芸館内ではコーヒーなどの飲み物や東高校生の作ったパウンドケーキ販売がありました。また、年配者のカメラマンが多かったのに驚きました。
大庄屋中島家跡 津山市東一宮(現中島遊園)
ここは藩政時代の「大庄屋中島家累代の屋敷跡」である。初代中島孫左衛門は戦国の末期にここに住み、領主宇喜多氏に禄仕した。関ヶ原の戦いに敗れ宇喜多氏除封の後、武を捨て、営農に励み、森・松平両候のもとで大庄屋となり270年の間、その職を世襲し、農村の発展民利の増進の実を挙げ郷土繁栄の基礎を築いた。
その担当地域は、一宮構と呼ばれ東一宮・西一宮・大田・籾保・上横野および下横野の6ヶ村で、ここが支配の中枢であった。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)
物見神社のモミ(マツ科)
所在地:加茂町物見・所有者:物見神社・推定樹齢:200年・目通り周囲:3.7m・樹高:25m
県道津山智頭八東線より北に150mのところの山寄りで物見集落の中程にある神社で、物見の名称を社号とした新しい氏神である当神社境内の東側に大きくそびえている。
本樹は右と左にスギの巨樹と並んで生育しており、やや枝張りが少ないが、神社の象徴木としての趣がある。神社の近くにはアラカシの巨樹が生育している。(文:『津山の名木百選』より)(2017年2月25日撮影)
禍福神社(かふく)は、上部神社のすぐ近くでお祀りされています。禍福神社は明治期に当地で熱病が流行したおり、疫を封じ、神として鎮撫することとした。(岡山県神社庁HPより)(2014.9.26撮影)
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した三層六階建ての望楼形天守閣で、城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を伝えていました。城主の権威を象徴する書院造りの居間(城主の間)が設けてあり、初期の天守閣の性格を物語っています。昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和41年に再建され、城主の間も復元されています。
高倉小学校の記念碑に見る高倉の学校教育
高倉小学校の校門を入って北側の庭園に、「創立百周年記念碑」と「創立百十周年記念碑」が建っている。また、寄松池の土手から西に坂道を上った峠に、創立百周年記念事業として昭和51年(1976)10月に建立した「高倉小学校創立之地」の碑がある。
創立百周年記念碑の題字は時の文部大臣奥野誠亮氏の書で、当時の高倉公民館長片山方雄氏の碑文が
刻まれている。碑文を補足しながら高倉の学校教育の歴史をひもとくこととする。
(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)
高野山真言宗準別格本山尊光院圓通寺は、元総持院と号した。弘法大師帰朝後この美作の地に密教を広めるため、当山を建立したと伝えられる。
古来より西の高野また二ノ宮高野神社の奥の院と称せられたが、永禄年中福田玄蕃盛昌(毛利の武将)桝形城を築き、寺を外衛として軍士の大半を住居させた。よって城陥るに及び寺も全焼す。
時の院主成瑜法印焼趾に草庵をいとなみ法灯を守る。現在別所と称する土地で、広大な敷地跡があり、昭和二十二年「金銅仏」が掘り出された。
三十八世覚清上人檀越を説き、現在地へ再建された。
津山森氏入封の後、当寺へ対する帰依浅からず寺領百石を寄進されている。四十七世秀範上人の時、再度焼失したが再建され、本堂の棟木に「寛延四年(一七五一)秀範七十二才これを建つ」の文字が見られ、現在の建物は二百四十数年の歴史を有す。
近世の高僧として知られる竺道契・新弘栄師(両師に付いては岡山県大百科辞典参照)が住した。寺宝・文化財は数十点有する。(文:美作 高野山真言宗八十八ヶ所霊場HPより抜粋)(2016年12月25日撮影)