津山城下町歴史館が4月オープンしました。

rekishikan10.jpg

 江戸時代の武家屋敷だった旧田淵邸を活用した「津山城下町歴史館」が2017年4月27日に開館しました。
長屋門は修復し、傷みの激しい母屋を解体して、1147㎡の敷地にだんじり展示棟、ガイダンス棟が新たに建てられました。展示棟には、県重要文化財だんじり6基。ガイダンス棟にはだんじり1基と、旧田淵邸の模型や、大名行列図の複製などを展示し、パネルなどの資料を並べた。事業費は3棟合わせて約1億2000万円。(撮影2017年4月2日、5月3日、6月20日)

tabuchi22.jpgtabuchi33.jpgtabuchi11.jpg

旧田淵邸 長屋門
 津山城下の武家地であった田町地区の南西部に位置する旧田淵邸の長屋門です。
 規模は桁行14.82m、梁間3.96mで、門扉は西に寄せられており、外観は漆喰塗で、街路に面した南側は下見板張、切妻屋根桟瓦葺きの建物です。

rekishikan4.jpgrekishikan1.jpgrekishikan3.jpg

 建築時期は、天保11年(1840)に田淵守助がこの屋敷を拝領した頃と推定されています。
 その頃田淵家の家禄は50石で、料理人から、郡代・町奉行・勘定奉行・祐筆・槍術指南役などを勤めました。
 田淵家が拝領する以前のこの屋敷には、津山藩儒官の永田敬蔵が居住していました。
 学問修業中の箕作阮甫は医術修行で上京する前、永田家にしばらく寄寓していたという記録があり、その場所がこの屋敷であれば、津山洋学ゆかりの地でもあります。平成27年3月 津山市

rekishikan6.jpgrekishikan5.jpgrekishikan5-3-1.jpg

一番右手にあるおトイレも綺麗です。

rekishikan5-3-10.jpgrekishikan5-3-11.jpg

武家地の景観要素
町屋の敷地は間口が狭く奥行きが長いことが特徴ですが、武家屋敷の敷地は間口が広く、300坪を超える広大な屋敷地が特徴です。
敷地の前面には石組み側溝の上に土塀を連ね、その中央付近に長屋門や腕木門を開き、主屋は敷地の表寄りに立てられるのが一般です。
主屋と土塀の間には庭園が設けられ、主屋の背面・側面には土蔵などの附属屋が建てられます。

田町の屋敷割
田町の街区は、中央に8区画ある東西165m・南北82.5mの街区を基本としています。
これらの街区の中に配される武家屋敷地は、街区を8等分する形を基本としており、8等分された敷地の面積は約400坪です。この400坪という面積が、田町の標準的な武家地の敷地面積でした。


rekishikan5-3-12.jpg

旧田淵家家相図
この津山城下町歴史館の敷地は、旧田淵邸です。主屋は玄関の式台部分のみ保存・再現していますが、表の長屋門は江戸時代の長屋門を修理・保存しています。
旧田淵邸は19世紀中ごろに建てられたと考えられていますが、家相図が3枚残されています。それぞれに描かれた建物はいずれも微妙に異なっていますが、年代のわかっているものは彩色された家相図で、嘉永5年(1852)のものです。それぞれの家相図を比較すると、建物が増築されたり、取り壊されたりした様子がわかります。

tabuchi01.jpgtabuchi02.jpg

巨大な屋敷地
田町御門のすぐ西側に、一般の屋敷地の5倍近い敷地を持つ屋敷が見えます。この屋敷の長屋門の一部が今も残っており、往時の繁栄が偲ばれます。

田町地区武家屋敷の様子
この模型は、江戸時代後期の田町地区の標準的な武家屋敷の様子を再現したものです。
幕末にこの城下町歴史館の区画に住んでいたのは、勘定奉行などを歴任した田淵家でした。田淵家には3枚の家相図が残されており、それぞれの家相図を比較すると、敷地の中で建物が頻繁に改築されている様子が見て取れます。
模型は、年代の判明している「嘉永五歳(1852)壬子三月吉辰 家相之画図」に基づいて作成しています。


tabuchi55.jpgrekishikan.jpg

津山城下町歴史館

rekishikan5-3-23.jpgrekishikan5-3-3.jpg

坪井町のだんじりが展示してあります。         津山の歴史館内部

rekishikan5-3-4.jpgrekishikan5-3-5.jpgrekishikan5-3-6.jpgrekishikan5-3-7.jpg

津山城下町の歴史が詳しく書かれています。

rekishikan5-3-8.jpgrekishikan5-3-9.jpg

出雲街道沿いの町並み                
出雲街道の両側に町家が隙間無く建ち並ぶ
大きく屈曲する出雲街道
外から攻めてくる敵の視界を遮るように街道は要所で折り曲げられている。
西大番所図
藺田川にかかる翁橋の東詰め、出雲街道の北側に番所の建物がありました。
東大番所図木戸門地面之図
宮川にかかる大橋の西詰め、出雲街道北側に番所の建物がありました。


津山城下町の特徴
津山城下町は、森忠政によって計画的に設計された都市で、特に城の西側である田町地区及びその南側に広がる町人地は整然とした方形の区画が形成されています。
その設計は、藺田川の直角に折り曲げられた屈曲からも明確に読み取れます。
津山城下町絵図
津山城下町は吉井川の北側に、東西に長く建設されました。
絵図の中心、堀に囲まれた範囲が津山城、黄色に塗られた部分が武家地・黒が町人地・赤が社寺地です。城を中心に城下町の構成要素が整然と配置されていることが読みとれます。


rekishikan5-3-17.jpgrekishikan5-3-14.jpgrekishikan5-3-15.jpgrekishikan5-3-16.jpg

奴行列
田町奴行列の原点は、江戸時代の参勤交代に模して陣笠・裃等を着用した、戦前の「余興田町大名行列」といわれています。
戦後、地元青壮年団組織が田町奴行列として徳守神社の祭礼に練り歩いたことから始まっています。
現在も徳守神社の祭礼に欠かせないものとして、地元に受け継がれています。(文:案内板より)

rekishikan5-3-19.jpgrekishikan5-3-21.jpgrekishikan5-3-22.jpg

瓦の展示

rekishikan9.jpgrekishikan8.jpg

だんじり館には6基展示してあります。

sakaimachi_danjiri.jpgtogawamachi_danjiri.jpgkyomachi_danjiri.jpg

堺町                戸川町              京町

miyawaki_danjiri.jpgnikaimachi_danjiri.jpgnishi_danjiri.jpg

宮脇町               二階町               西今町