取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「石仏」で検索した結果,47件の記事が見つかりました。

大倭村 村社 八幡神社(津山市南方中)

hachiman4.jpg

由緒沿革 創立年代は詳かでない初の折居神社又は折居八幡宮と稱へて居た。
寛平四子年再建したが慶安4年11月火災のため神器奮記全く焼失して傳ふるものがない後寛文元年假宮を建て元禄二巳年9月10日と正徳3年8月と天文2年5月との三回に建立又は修繕して今日に至った。
明治12年9月22日村社に列し大正4年10月村内無挌社八坂神社及稲荷神社を合祀した。
社殿 本殿梁行4尺 桁行4尺5寸(元文2年建設)、拝殿梁行2間半 桁行3間 幣殿、神庫(以上明治11年建設) (文:『久米郡誌』より) 2014年3月29日取材

大倭村 村社 八幡神社(津山市南方中)の続きを読む

六体地蔵(津山市川崎字玉琳)

gyoku4.jpg

津山市川崎字玉琳 神経痛、リュウマチなどに御利益があるといわれている。
墓地の入り口に立つ地蔵石仏、地蔵は六道の救済者とせられ、死後の救いの手として墓地の墓守役として信仰さられている。葬式はもちろん墓参りの時にも必ずまいるが、法華宗や真宗の所には見られない。
六体地蔵は檀陀、宝珠、宝印、持地、徐蓋障、日光の六体の称。

六体地蔵(津山市川崎字玉琳)の続きを読む

不動堂(お不動さま)(上高倉字堂西)

不動2.jpg

 東谷の釣井から西谷に越す坂道の上にお不動さまがある。
 お堂は平成元年に改築されたもので、堂内の中央に厨子に納めた不動明王、両側に観音菩薩・薬師如来・弘法大師など、多くの仏像が安置されている。
 お堂の東側(字本願寺)には、この場所が津山城の鬼門に当たることから、元禄元年に城主森家の祈願所として建立された山伏寺の極楽山本願寺があった。この極楽山本願寺が廃寺となった後、その木材を用いてお寺の西側(字堂西)に不動堂を建て、本尊の不動明王を安置したと伝えられている。

不動堂(お不動さま)(上高倉字堂西)の続きを読む

上塩(じょうしょう)の石仏(下高倉東字石仏)

地蔵.jpg

 上塩池の北の近平用水(ちかひらようすい)路の土手下に一体の石仏が祀られている。慶長8年(1603)に書かれた善応寺縁起(東作誌)に高倉県の33か所の霊場の一つとして下高倉村石仏の地蔵堂が記されていて、お堂に納められた石のお地蔵さんとして多くの参詣があったものと思われる。水田の構造改善事業のために移設され、昔の位置は定かではない。(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)

上塩(じょうしょう)の石仏(下高倉東字石仏)の続きを読む

河面 苫勝霊場めぐりの信仰上原のお大師堂

uehara1.jpg
 上原の丘陵端に民家より少し離れて、新築整備されたお大師堂がある。掲げられている額に、「苫勝霊場 第十九番本尊 地蔵菩薩」とある。 
 苫勝霊場○○番とは、かつての苫田郡・勝田郡地域の八十八ヵ所めぐりの札所(観音霊場)を言うのであって、戦前の八十八ヵ所めぐりが大変盛んであった歴史を伺わせるものである。霊場めぐりは、農閑期の春先に遍路姿で杖をつきながら歩き、数十人の団体で巡回していた。数日がかりの巡回のため、時折、上原中の民家が総掛かりで遍路宿をつとめ、世話をしていたと言う老人の話である。

 そもそも、八十八ヵ所めぐりは、観音信仰に由来し、観音霊場三十三ヵ所札所めぐりの発展した、四国の八十八ヵ所(弘法大師霊場)めぐりを示すものである。八十八基の石仏などを並べてあるのは、この霊場(札所)詣での写しで、多くの場合は、石仏などの前に、そこに示した寺院の土を埋めてお砂踏みをし、参詣と同じ意味を持たせている。八十八ヵ所の札所に参ると、それぞれ米粒を供えていく「御撒米」や、5円、10円などの硬貨を1枚づつ「御賽銭」として供えていく形の信仰は今も続いている。

 歴史的には、養老2年(718年)に西国三十三観音霊場が創設されて、弘法大師(空海)のゆかりある四国八十八ヵ所霊場が、平安初期(920年頃)創設された。一般大衆が、本格的に霊場巡りをするようになったのは、明治の20年代からと言われ、四国の場合徒歩で約60日かかっていた。そのため、苫勝の事例のように、全国各地にこれに代わる数日で参拝できる巡礼コースが創設された。

 上原の19番霊場は、四国八十八ヵ所19番霊場である徳島県小松島市の立江寺の本尊=延命地蔵菩薩を勧請されている。立江寺は、聖武天皇の勅願寺で、弘法大師の刻んだ仏像があり、阿波藩主蜂須賀公により再建された古刹である。地蔵菩薩そのものは、観音の化身の姿であり、延命地蔵は、人の苦しみを救うばかりかいざという時、身代わりとなって災難から助けてくれる、霊場あらたかな地蔵尊として信仰が厚い。上原では、一時、薮の中で薄汚れていた石仏であったらしいが、今再びよみがえり、毎日のように線香や蝋燭が絶えない住民の熱心な信仰が続いている。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)2012.9.17

河面 苫勝霊場めぐりの信仰上原のお大師堂の続きを読む

広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑

kaidou1.jpg
広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑
 広野保育園の南側で、南北に通じる市道福井線と、東西の旧真加部街道の接点に位置する道ベりに、地元の人が言う六部の碑が祀られている。
 六部の碑とは、正しくは全国六十六部廻国供養塔のことである。世の平穏や民生の安定を願って、全国六十余州の有名社寺を行脚して、法華経札を納めて廻る遍歴の僧侶たちを本来、六十六部と称した。しかし、江戸末期には次第に大衆化して、村々を廻って戸口毎に拝み米や銭の御布施をもらって歩く、遍路姿の在家の巡礼者たちをも総称して六部と言うようになった。彼らは廻国道中に村人の協力を得て、往来の多い道筋あたりに、こうした供養塔を建立した。今日に残るあちこちの供養塔に六十六部の記名がある所以だが、近くでは、清瀧寺仁王門そばの廻国供養塔とおなじ類いである。

広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑の続きを読む

長雲寺

 医王山 薬師院 長雲寺縁起
 往古、聖武天皇の御代に、行基菩薩の建立されし東漸寺(当時の東百メートルに地名が残る)は尼子・毛利の争いのため灰燼に来す。その跡地に残りし薬師如来像を運びて薬師堂を建立す。
 寛永元年(1624)備中の僧西乗院この地に来りて1寺を構え、いくばくもなくして帰る。同3年(1626)僧円寿、住職し、医王山長雲寺と号す。明暦 3年(1656)津山城主森長継公の女が眼病にて参詣祈願し利益を得て平癒す。よりて長継公堂宇を新築寄進す。爾来、賽者多く、世人伝えて出雲一畑薬師の 分身なりという。毎月8日の本尊縁日には終日参詣者が絶えない。
・本尊/薬師如来、脇侍 日光菩薩、脇侍 月光菩薩、脇侍 十二神将。本尊薬師如来の脇侍ならびに守護神にして、本尊如来の両脇に祀る。特に十二神将は薬 師如来を信修する者を1年間1躰ずつ開扉す。

・鎮守堂/本尊摩利支天。南岸の石山寺の摩利支天と対峙し、武運の守護神として尊崇さる。寛政11年(1761)に逝去されし武人、東常直も当山鎮守堂の施主なり。(当時の位牌有り) 別尊、三鬼大権現。養蚕の神として尊崇さる。
・石仏三十三観音/参道の両脇に祠られおりしを、大正年間、本堂裏に移し祠る。お堂巡りをし巡拝すれば、西国三十三ヶ所の巡拝すると同じ功徳を得るといわる。
・石仏/腰折れ地蔵(石段下の堂に祀る)いつの頃よりか、腰を病む者に御利益ありと詣ず者多し。地蔵に詣でし後、地蔵の腰紐を借り、御利益を受くれば、新 しき紐を倍にして返す。 地蔵常に新しき紐を多数諦めてござる。(2010.1.16取材)

長雲寺の続きを読む