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取材記事内を検索ワード「祠」で検索した結果,109件の記事が見つかりました。

国の名勝の衆楽園にある「七面大天女」

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七面大天女
 七面大天女の総本山は山梨県南巨摩郡早川町にある七面敬慎院で摩尼殿に祀られている。日蓮宗の総本山 身延山 久遠寺の鎮守神、法華経の守護大善神として祀られた。
示現伝説に「日蓮聖人が高座石で説法中、若く美しい女性の姿で現れ、正体は龍で法華経を信じるすべての人々を守護するといい七面山の一の池に立ち去った」......永仁5年(1297)9月19日七面山に七面大明神として祀られた。示現伝説から七面大菩薩、七面大天女とも呼ばれ池の守護神としても崇敬されている。
 徳川家康の側室養珠院 お万の方が元和5年(1619)に七面山に初登詣して女人禁制をといたといわれている。寛永17年(1640)にも再び七面山に登詣している。
 津山への勧請は七面山妙徳庵の縁起によると、宝永3年(1706)6月4日、津山藩主松平宣富が江戸の七面明神を分祀して津山城内の厩(おんまや)濠の傍に勧請した。明治4年廃藩となり七面祠も廃社同様となった。

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美土路家の屋敷神・構屋敷跡(一宮)

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 津山市街から北に向かって行くと、中山神社の近くにある難波酒造手前の一角にある。本光寺住職にお聞きすると、元々は美土路家の屋敷神だったそうです。昔美土路家はとても広大な土地を所有していたそうで、ここも屋敷の一角だったそうです。(2016年2月3日・2017年2月8日・6月13日撮影)
 「美作一宮 郷土の歩み」に『城所屋敷』の記述がある。美作の守護であった赤松氏の重臣城所備後が居を構えていたとのこと。後に中山神社に仕える泉氏、その後を美土路氏が居住した。古老によれば「一町四方の土塁と堀に囲まれていた」と。里人たちはその一画を「構屋敷」と呼んだ。
 現在残る痕跡としては、現「難波酒造」敷地内に残る東西15m、高さ3m近い土塁の一部があり、最近まで公会堂東にあった防火用水プールもその堀の跡であったようだ。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)

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中部第七十二番霊場(津山市種)

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津山市種にある中部第七十二番霊場(2016年11月13日取材)
岡山県道449号押淵皿線県沿いに、ひっそり佇んでいるお社の横には燈籠があり、道行く人を見守ってくださっています。また、綺麗な祠を見ると地域の人達が大切にお祀りされている様子が解ります。

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そば粉聖人 遍照院是空法師(美作市)

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そば粉上人(遍照院是空法師-高木蜂次郎)
 英田郡美作町殿所に嘉永4年(1851)に生まれた遍照院是空法師(大正7年入寂)は、そば粉上人と称えられている。上人は、19歳のある夜霊夢を感じ信仰の道に入ったといわれ、発心以来五穀を絶ちそば粉に漬物のみ食べ、また一切の火気を断って風呂に入らず水ごりをとるといった、常人を離れた荒修行を続けた。
 難病患者に対しては、わが身が代わってその苦痛を受けると祈祷し、自分の指を切断していた。入寂時満足な指は親指一本だけであったという。勝央町にも当時植月、小矢田にたびたび訪れており、上人の功徳により立ち直ったという患者が多い。
 上人の高徳を慕い、その後権田甚四郎らの人びとによって城山(小矢田)の登り坂に、奉唱大師講、大日如来その他の板碑が建立されている。その隣に上人を供養する堂宇が建てられた。(当時の堂宇は破損し新しく小さな祠がつくられている)また供養とは別に上人の面影を山田照雲(一刀彫)が彫刻している。「昭和3年5月戸倉山勧請、辺照院是空師 哲刀彫」と記されている。(戸倉山勧請は誤記とおもわれる。この山は城山である)
(文:勝央町史より)(写真:2016年12月10日撮影)

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宗道神社(鍛治町)

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 城主森公は慶長8年(1603)美濃の関鍛冶から刀匠景兼長右衛門を統領とする一門の鍛冶を同伴して入封し、城下のほぼ中央に鍛治町をつくった。
宗道若宮とも称し、当初洞は津山城の南庭に梨樹が一株あるだけであった。宏、政が築山をするため樹下まてホ地を掘ったところ、一匹の青蛇がとくれろを巻いて動ずる様子もなかった。
忠政は即日梨樹を山北村八子の八幡宮の境内に移して把り、その後、宝麿9年(1759)鶴山八幡より此地に遷された。もと人家の裏に把つであったのを、明和6年(1769)社地を広げ参道を設け神門及び鳥居を建立し、鍛治町並びに住民の鎮守とした。又、古代鍛冶部の租神である天目一箇神も祭神としている。
当神社には斉藤家四代平井茂一郎藤原兼景が、宝暦11年(1761)に奉納した鎗(やり)が今も大切に保存されている。
所在:津山市鍛治町 祭神:素戔鳴尊(すさのうのみこと〉、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)
創建:慶長年間(1596~1615)以降 祭礼:夏祭7/20、秋祭10/最終日曜
(文:津山城下町まちなかお社巡り 津山まちづくり本舗)(2016年11月30日撮影)

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中山神社のイチョウの木

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本樹は、国指定の重要文化財である中山神社の本殿東側に隣接しており、中山神社の社叢の中でも祝木のケヤキ・ムクノキ等と共に代表的なものである。なお、雄木であり実はつかない。
中山神社のイチョウ イチョウ(イチョウ科)・所在地/津山市一宮695・所有者/中山神社・推定樹齢/500年・目通り周囲/4.2m・樹高/25m(文:平成5年 津山地方振興局発行 津山の名木百選より抜粋)(2016年8月11日撮影)

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長谷のムクノキ(久米南方中)

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 久米町南方中の国道181号線の南側に長谷の集落があり、そのほぼ中心に岸上集落の鎮守の森があり、その神木である。
 ムクノキは山地に生える落葉高木で巨木になる。本樹は、根元近くから双幹に裂け、両幹とも空洞化していたが現在は一幹は腐れ、一幹となっている。荒神様の祠がある。
(文:平成5年 津山地方振興局発行 津山の名木百選より抜粋)(2016年8月7日撮影)

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中山神社の大鳥居とムクノキ

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中山神社 慶雲4年(707)に創建され、貞観6年(864)官社となり『延喜式』では美作国唯一の名神大社で、この国の一の宮とされ、永保元年(1081)に正一位の神階を授かった神社である。
 尼子勢がこの地方に攻めこんだとき兵火に焼け、永録2年(1559)に再建され、明治4年(1871)に国幣中社となったが、戦後、社格制は廃止され、宗教法人中山神社となった。
 神社に到着すると大鳥居がある。これは寛政3年(1791)につくられたもので、角貫に木鼻がなく、笠木と島木にそりをもたせて壮大美を強調してあり、他地方には例をみない大鳥居で「中山鳥居」といわれ、市指定文化財になっている。
 大鳥居の左側には「名木百選」のムクノキがある。推定樹齢500年、目通り周囲5.5m、樹高23mの古木である。(文:津山の散策にしひがしより抜粋)(2016年7月18日取材)

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森神社(西横山)

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 由緒 口碑によると、戦国時代に此の地の領主の荒尾志摩守が京都の伏見から、稲荷神社の御分霊を勧請したものと伝えている。勧請年代は不詳で、もと町内字朝伏に鎮座していたのを、寛文四年に現在地に遷座した。明治四十五年一月境外末社の国常立神社を合祀した。(文:岡山県神社庁HPより)
 作陽誌には「守神社在二横山村一 氏神也祭祀端午重陽仲冬十二日、境内東西四十八間、南北十九間、末社有二荒神」とあります。村社(2016年3月6日撮影)

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福本の荒神社(坪井上)

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 荒神様
笠森神社の西南の山の中腹に石垣で一段と積み上げ、その上立派な祠と共に祀られている。百姓の神、牛馬の神、また子供の神様として宮参りに子供と共に参る。折掛樽も供える。元気に育ってほしいと願い又部落の守護神でもあり、年の暮れから新年にかけて多くの人が今日も参っている。牛を買ったり、かえた時も、仔牛が生れた時も「牛の仔祝い」といって荒神様に酒を供えていた。(文:北恵兆さん)

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