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取材記事内を検索ワード「山城」で検索した結果,673件の記事が見つかりました。

高福寺(阿波)

あじさい寺。
摩尼山高福寺は、京都市花園の妙心寺を本山とし、大日如来を本尊とする臨済宗寺院である。
初代津山城主忠政が、美作一八万六五〇〇石の領主として、慶長八年(一六〇三)に入封し、慶長九年(一六〇四)に、津山神戸にあった安国寺を津山小田中の地に移して、名称を本源寺に改め、天倫玄節大禅師を開山として森家の菩提寺と定めた。
その後、本源寺開山天倫玄節大禅師をこの地に勧請し、元和四年(一六一八)に摩尼山高福寺創建された。高福寺は創建開山禅師の因縁により、津山城主森家の鶴丸を寺の紋として使用することがゆるされている禅宗寺院である。
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石山寺

森忠政が津山城の築城に際し、石垣に使用する石材の切り出しをこの地にて行いましたが、事故などが少なくありませんでした。そのため、家臣に命じて摩利支天を勧進し、お祭りしました。それ以来、庶民の祈願所として崇敬され、石山摩利支天として今日に至っています。
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桜:https://www.e-tsuyama.com/kankou/report/2010/04/post-27.html

法源山 宗永寺(小田中)

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 法源山宗永寺は往昔花園天皇の帰依建立となる京都妙心寺を大本山とする臨済宗妙心寺派の末寺で、津山城主 森長継公(二代目藩主)の母堂の菩提寺なり。(明暦2年・1656年建立)。渓花院は森忠政公の息女で美濃の金山で生まれ、関民部成次に嫁し元和元年(1615年)21歳で津山に没す。西今町の裏の渓花院に葬られるも、その後明暦2年に宗永寺が建立される。他に長継一門の供養墓として、清泰院殿(忠政公側室)本光院殿(長継公息女・於鍋)、陽林院殿(長継公子息・頼母)、影幻院殿(長継公子息・吉之助)、梅雲院(長継公側室・頼母の母)の石塔を安置す。
古書には9間×12間を擁し城主の信仰篤く、作州の名刹に数えられしが、天保年間惜しくも焼失、現在の本堂は旧観音堂なれど、これは元文4年(1739年)万人講により建立す。その規模から推して旧本堂の壮大さが想像できる。その後、大正年間に檀信徒の再建熱願により観音講を設け、復元計画されたしも挫折して今日に至る。2009.9.19・20

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妙勝寺

元は院庄にあり金剛寺と称する寺であったが、津山城主の意向により現在地に移り日蓮宗宗妙勝寺となった。
当時の墓所には渡部藤左衛門義士のお墓があり、現在安岡町、茅町の町民により祀られている。また、当山の第31世住職故瀬川学進上人の代に、行路者の一時保護施設「報恩無料宿泊所」を開設し津山市老人ホームの基礎を作った。現在は第32世住職瀬川一行上人に引き継がれ、児童養護施設「立正青葉学園」を開設し家庭に代わって児童の保護、育成を行っている。
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長雲寺

 医王山 薬師院 長雲寺縁起
 往古、聖武天皇の御代に、行基菩薩の建立されし東漸寺(当時の東百メートルに地名が残る)は尼子・毛利の争いのため灰燼に来す。その跡地に残りし薬師如来像を運びて薬師堂を建立す。
 寛永元年(1624)備中の僧西乗院この地に来りて1寺を構え、いくばくもなくして帰る。同3年(1626)僧円寿、住職し、医王山長雲寺と号す。明暦 3年(1656)津山城主森長継公の女が眼病にて参詣祈願し利益を得て平癒す。よりて長継公堂宇を新築寄進す。爾来、賽者多く、世人伝えて出雲一畑薬師の 分身なりという。毎月8日の本尊縁日には終日参詣者が絶えない。
・本尊/薬師如来、脇侍 日光菩薩、脇侍 月光菩薩、脇侍 十二神将。本尊薬師如来の脇侍ならびに守護神にして、本尊如来の両脇に祀る。特に十二神将は薬 師如来を信修する者を1年間1躰ずつ開扉す。

・鎮守堂/本尊摩利支天。南岸の石山寺の摩利支天と対峙し、武運の守護神として尊崇さる。寛政11年(1761)に逝去されし武人、東常直も当山鎮守堂の施主なり。(当時の位牌有り) 別尊、三鬼大権現。養蚕の神として尊崇さる。
・石仏三十三観音/参道の両脇に祠られおりしを、大正年間、本堂裏に移し祠る。お堂巡りをし巡拝すれば、西国三十三ヶ所の巡拝すると同じ功徳を得るといわる。
・石仏/腰折れ地蔵(石段下の堂に祀る)いつの頃よりか、腰を病む者に御利益ありと詣ず者多し。地蔵に詣でし後、地蔵の腰紐を借り、御利益を受くれば、新 しき紐を倍にして返す。 地蔵常に新しき紐を多数諦めてござる。(2010.1.16取材)

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津山城(鶴山公園)の石垣についてその2

その1その2その3その4その5

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▲表中門(二階建ての門で、大阪城、名古屋城、江戸城を除いて一番大きな門で、登城する石段としては全国でもまれな石段の幅といわれているそうです。)

津山城の石垣は発掘調査で見つかった埋没石垣を除き、城内で観察することのできるものについては、おおむね3つの類型に分類することができます。
1、自然石あるいは自然石を打ち割っただけの石を用い、角の部分も不規則な石で構築するもの。
2、表のみ面をのみで平滑に加工した石を用い、石と石の間を小さな石(間詰め石)で詰め、角には大きさのそろった長方形の石を用いるもの。
3、表面を繋で平滑に加工し形をほぼ四角く整え、間詰め石をほとんど用いず、角の部分も長方形の石を規則正しく積み上げているもの。の3つです。これらはその石の加工の具合などから古い順に1→2→3と技術が進歩していったものと考えています。

1の特徴をもつ津山城で最古階段の石垣は城内のどの辺りになるのでしょうか?
それは本丸の東側の太鼓櫓や月見櫓が乗る石垣、本丸の入り口の切手門南側の石垣、あるいは搦手側(裏手側)になる七間廊下石垣および裏鉄門枡形内の石垣などに見ることができ、本丸およびその周辺に限られるようです。(津山城百聞録より抜粋)

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つやま雛めぐり(作州城東屋敷・城東むかし町家)

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作州城東屋敷の豪華なひな壇です。

2011年3月3日(木)~6日(日) (午前10時~午後5時まで)来てみんちゃい、歩いてみんちゃい、見てみんちゃい、津山城下町「雛めぐり」が開催されました。当日城東地区では様々なおもてなしの行事が執り行われました。作州城東屋敷では、段飾りと御殿のお雛様の展示やお茶のおもてなし、城東むかし町家ではお雛様と掛け軸の展示がありました。

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津山城下町雛めぐり(城西地区+α)

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▲土井家(田邑)のお雛様

【お雛様の由来】近江の国膳所(ぜぜ)、本多六万石の大名の姫君が、津山松平藩御家老の大熊家に嫁す時、持参した雛様で大熊家にあったものです。(作州民芸館にて)2011年3月3日(木)~6日(日)午前10時~午後5時


来てみんちゃい、歩いてみんちゃい、見てみんちゃい 津山城下町「雛めぐり」が行われました。

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