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津山市(旧勝北町)の宝篋印塔

zenmen.jpg宝篋印塔(2011.6.12)
 宝篋印陀羅尼経を安置すると、三世一切の諸仏の全身舎利を奉蔵するものと信じられて作った塔を宝篋印塔という。基礎・塔身笠・相輪の部からなり層段を刻み、四隅に飾突をもつ笠部が特有である。また塔身に四仏梵字を刻し基礎の側部に年号等を記銘しているものがある。もともと供養塔であったが後には墓塔としても用いられたようである。
 勝北町では数多く発見されているが笠部のみであったり相輪のみであったりするものが多い。ここ工門の宝篋印塔は康永2年という南北朝時代の紀年銘があり、岡山県でもすぐれたものであるといえる。「沙弥」「比久尼」の文字は判読しがたい。

勝北町教育委員会
勝北町文化財保護委員会

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河辺上之町(桝形)津山市指定史跡

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河辺上之町(西の桝形)(2011.5)
 津山藩は、「百姓村の山上がり」と言われる農地拡大政策を断行しました。中でも、寛文4年(1664)に実施された河辺村の移転は大規模なもので、57戸が対象になりました。農民たちは「しとと原」と呼ばれる丘陵への移転を命じられましたが、その場所は暮らしに不便な上、牛の餌や肥料にする大切な柴草を刈る場所であるため無くなると困ると、藩に訴えましたが聞き入れられませんでした。しかし、農民は土地にかかる年貢を免除する、津山城の草刈を認めるなど条件が整ったことから移転に応じました。現在、この場所は河辺上之町と呼ばれ、東西に石積みの枡形が残っています。

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荒神山城跡(市指定史跡)

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▲荒神山城跡(2011.5.14)手前はやまなみ街道です。(荒神山123番地の1)

荒神山城跡は、元亀(げんき)元年(1570)に宇喜多氏の武将花房職秀が築城し、わずか24年後の文禄3年(1594)には廃城となった短命な山城です。
 本丸を中心とした曲輪の配置は、連郭式と輪郭式の複合したものであり、枡形虎口の存在、瓦葺き建物の存在を示す大漁の瓦、大規模な井戸跡、本丸周辺に認められる石垣など、中世から近世への過渡期のいわゆる職豊系城郭の特徴を顕著に示しています。

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院の庄【津山市院庄地域】

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▲院の庄地図(2011.4.16)。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

 院庄の地は美作の略(ほぼ)中央にあたり、西から東に吉井川が流れ土地は平坦で水陸交通の便に恵まれ上古より美作の中心として栄えて来た所である。
 崇神天皇の御宇(316-391)諸国に神戸(じんご)を定め給うや吉備の神戸は苫西郡神戸郷に置かれたと、古書にあるから、それが立地条件から見て院庄の地であることは容易に諾ける。神戸とは諸国総鎮守の祭典、修理の用に充てるための領地で、美作一宮即ち中山神社、美作二宮即ち高野神社の神領になる訳である。
また、大化の改新の昔、院庄平野条理(現在の農地基盤整備)が行われていることから推しても、古くから肥沃な耕地が開けていたことが伺われる。下って王朝時代後鳥羽院の荘園となり、ここから院の荘(庄)の名が生まれたことは広く世に知られているところである。
 次いで源頼朝が鎌倉に幕府を開いて武家政治を始めるに当たって諸国に守護職を置き地方の統治を行ったが美作守護職の館は院庄に置かれており、今の作楽神社境内がその遺跡を留めている。
元弘2年、後醍醐天皇は北条高時のために捕えられて隠岐に遷(うつ)されたが、その途中院庄の守護職館に3泊4日御逗留(とうりゅう)になったと伝えられている。その時備前の国の住人児島高徳が、ひそかに行在所に忍び入り桜を削って有名な「天勾践ヲ空シウスル莫レ時二范蠡無キニシモ非ズ」の十字の詩を書き記し、聖慮を慰め奉ったことは余りにも有名である。
「天莫空勾践 時非無范蠡」(「天よ、越王勾践にあたる後醍醐天皇を見殺しに してはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣、つまり、この私高徳がいるのだから」)というように解釈しているようです。

天皇御駐輦中の御製に次の二首がある。
あはれとはなれも見るらむわが民を
   思ふこころは今もかはらず

よそにのみ思ひぞやりし思ひきや
   民のかまどをかくて見むとは

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史跡 美作国分寺跡

史跡美作国分寺跡とその特徴
  美作国分寺は、総国文寺となる東大寺と伽藍配置が極めてよく似ています。また、寺域(お寺の範囲)も二町(約220m)四方で、国分寺の基本的な規模に一 致するといわれています。その上、創建時に屋根に葺かれた軒瓦の文様は、平城宮で用いられた瓦の文様と瓜二つという特徴があります。
  美作の国は、713(和銅6)年に備前の北部6郡を分割してつくられた新しい国で、その国府(国の中心の役所)は津山市総社に置かれました。美作国分寺の特徴である都との密接な関係は、そういった事情を反映しているかもしれません。
  奈良時代中ごろに建立された美作国分寺は、その後変遷を重ねながら、平安時代末には衰退したようです。
  美作国分寺と対になり建立された美作国分尼寺は、発掘調査の結果、国分寺の西方約500mのところに存在していたことが明らかになりましたが、伽藍配置等の詳細はまだ分かっていません。

 平成16年2月27日国指定重要文化財(史跡)指定

2009.9.2
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津山郷土博物館

▲児島高徳像

▲宇田川玄随先生

寛政5年(1793)オランダ人内科医ヨハネス・デ・ゴルテルの西洋内科書を翻訳し、それを「西説内科撰要」として刊行した。これにより我が国近代内科学の礎となり、また、津山洋学の始祖ともなった。寛政9年(1797)江戸茅場町で没す。


▲ 輿(江戸時代)

津山藩主の松平家が江戸城登城や将軍家菩提寺参詣などに使用したもの、服装は束帯姿の公家装束である。 前後5人ずつの力者が轅(台の下部左右の棒)を小脇にかかえて移動した。行列には家臣・従者など約170人の供が従った。このような輿の使用は御三家、御 家門・国持など特別の大名のみに許されたものである。

▲津山郷土博物館全景

▲屋外展示場

▲津山郷土博物館入り口

昭和9年に落成した旧津山市庁舎を増改築し、昭和63年に開館した。

津山には、美作国府・国分寺や津山城が所在するなど、古代より政治・経済・文化の中心地として繁栄し、独特の文化がはぐくまれてきた。

▲津山産パレオパラドキシア骨格復元模型

新第三紀中新世(約1500万年前)に生息していた哺乳動 物。昭和57年9月、津山市上田邑の工事現場(村瀬馨氏所有地)で、当時中学3年生の水杉和弥君が発見した。日本とアメリカだけから化石として出土する珍 しい絶滅種で、その正体は謎につつまれているが、カバやバクのような姿だったと想像されている。当時の津山は「古瀬戸内」と呼ばれる亜熱帯性の海の島嶼部 で、パレオは樹木が生い茂る浜辺を歩いたり、泳いだりしていたと考えられる。

▲須恵器(子持ちはそう)

▲須恵器(器台ほか)


1~2階は歴史資料の展示をしています。

3階はミニ企画展(美術関係)

津山がまだ海の底だった頃から現代まで、一つの町にこんなに沢山の歴史がコンパクトに詰まっている町は全国でも珍しい。とのことでした。

弥生時代=沼遺跡・中宮1号墳・沼の住居跡

奈良時代=国府(総社・国分寺)

平安時代=二宮(高野神社の神門は県下で一番古い木造の建物)

鎌倉・室町時代=鎌倉仏教をはじめた法然さん。後醍醐天皇が出てきて鎌倉幕府を倒した。

松平藩の日記が全国で10指に入る位誇れる物です。

津山は空襲を受けていないので文書類(古文書類)が数多く残っています。


津山郷土博物館

所在地 津山市山下92
○問合せ/

TEL 0868-22-4567

開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)

休館日/月曜日・祝日の翌日・12月27日~1月4日
○入館料 ・一般210円(160円)
・高大生150円(120円
・小中生100円(80円)

※( )内は30名以上の団体料

▲陶棺(粘土を焼き固めて作った棺)

▲埴輪

▲弥生時代の出土品

▲弥生の里


▲久米の佐良山

美作や久米の佐良山さらさらに わが名は立てじ万代までに

「古今和歌集」巻第20

▲一遍聖絵

法然(1133-1212) 源空。法然は房号。平安時代の末、浄土宗を開いた僧。美作国久米郡稲岡荘(現久米南町誕生寺)に生まれる。俗姓は漆氏。幼くして父に死別し、比叡山延暦寺 などで修行し、専修念仏を確立する。晩年、旧仏教側の弾圧をうけ、一時土佐国に流罪となる。著書に「選択本願念仏集」がある。

▲横穴式石棺(復元)

▲古墳時代の出土品

▲化石

▲津山の弥生文化

▲郷土博物館裏にある箱式石棺

▲郷土博物館裏


https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/kyodo/index.html