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河辺上之町(桝形)津山市指定史跡

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河辺上之町(西の桝形)(2011.5)
 津山藩は、「百姓村の山上がり」と言われる農地拡大政策を断行しました。中でも、寛文4年(1664)に実施された河辺村の移転は大規模なもので、57戸が対象になりました。農民たちは「しとと原」と呼ばれる丘陵への移転を命じられましたが、その場所は暮らしに不便な上、牛の餌や肥料にする大切な柴草を刈る場所であるため無くなると困ると、藩に訴えましたが聞き入れられませんでした。しかし、農民は土地にかかる年貢を免除する、津山城の草刈を認めるなど条件が整ったことから移転に応じました。現在、この場所は河辺上之町と呼ばれ、東西に石積みの枡形が残っています。

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河辺上之町町(東の桝形)

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河辺上之町町(西の桝形)                   東の枡形
津山市指定史跡
 江戸時代における農地の拡張は、各藩において急務となっていました。いわゆる百姓の山あがりと呼ばれているものも、農地拡張政策の一端でありました。これは、平地にある農民の居宅を山間の台地に強制移転させ、その跡地を田畑として利用し、耕地拡張を図るもので、数戸または村落全戸を挙げて実施されました。
 津山地方においても領内の数個所で実施されましたが、1664年(寛文4年)には、津山藩主森長継の発令した百姓の山あがりによって、加茂川東岸に接した平地にあった村落が、東南方向に位置するしとど原に移転させられました。これが現在の河辺上之町です。当時、村では日常生活や耕作に不便なばかりでなく、柴草山を失って困ることを理由に反対しましたが、許可されませんでした。ただし代償として津山城内の草刈を許されました。
現在、河辺上之町の残っている桝形(石塁)は、当時の名残りで、耕地拡張政策と同時に、また旧出雲街道に面していたことから、津山城の外郭防備のため関的役割としても利用した施政者の意図が伺われる遺跡であります。 (案内板より)

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 ▲左の石(東の枡形)                    ▲右の石垣(東の枡形) 

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                                   ▲常夜灯

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 ▲御旅所だったところです。                 (西の枡形)

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 ▲綺麗に刈り取られている笹ですが、この笹は決まった人が毎年刈られているそうです。(西の枡形)