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高野山真言宗 新善光寺は山号を金森山と称し、天長八年(831)弘法大師によって開基され、本尊は阿弥陀如来である。鎌倉時代の遊行聖で時宗の開祖一遍上人(1238~1289)の遍歴の生涯を描いた絵巻物「一遍聖絵」(国宝・京都歓喜光寺蔵1299完成)の中の、第八美作一宮中山神社の絵巻の詞書の一節に「それ(註・一の宮)をたちて、かなもりと申所におはしたりけるに・・・」と記されており「かなもり」とは金森山を指すものであると古くから伝えられている。
一切を捨てて一生を旅のうちにあって念仏の教えを説いた一遍上人が弘安九年(1286)美作一宮から当山にきて滞在したのである。
入り口にある「茶屋林道標」は市指定重要文化財(建造物)。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/tera/shinzenkoji/index.html
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▲中山神社本殿(国指定重要文化財)建造物大正3年4月17日指定
中山神社の沿革 文武天皇慶雲四年(707)の創祀。貞観六年(864)官社に列し、延喜式では美作国唯一の名神大社で此の国の一宮とされ、永保元年(1081)には正一位の神階を授かる。 平安時代の代表的説話である「今昔物語」には当社の猿神伝説があり、鎌倉時代の後白河法皇の御撰にかかる「梁塵秘抄」では関西に於ける大社として安芸の厳島、備中の吉備津と共に肩を並べている。 国家非常時(元寇など)には勅命により特に全国七ヶ国の一宮(武蔵・上野・伊豆・駿河・若狭・美作・肥後)を選び、国家安穏を祈願せしめ当社も其の中に選ばれて祭祀を厳修したとされる。 建武中興破れて約四百年間は、美作国中戦乱の巷と化し、永正八年(1511)と天文二年(1533)の両度に祝融の厄に遭い宝物・古文書等悉く焼失したが、永禄二年(1559)に至り、出雲国尼子晴久が戦捷報賛の為、社殿を再建し歴代藩主の崇敬厚く、「一宮さま」と親しまれ、明治四年(1871)六月には、国幣中社に列格す。 現在も、鍛金・冶工・採鑛等の守護神、農耕・牛馬の守護神として広く崇敬されている。
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▲美作總社宮は、社記に欽明天皇25年(およそ1400年前)、大巳貴命(大国主命)を字本館(西方約1キロ)にお祀りしたのが始まりと伝えられ、和銅6年(西暦713)備前国から6郡を割いて、はじめて美作国が置かれ、その翌年、国府がこの里に開庁されました。 その後、美作国司が大巳貴命を主祭神として、一宮中山神社、二宮高野神社の両大社をはじめ、美作65郷のすべての神祇を合祀して、總社宮と名づけ、その後およそ500年間歴代の国司は、みなこの御神意を奉じ、国内の政治を執り行いました。(2009.1月取材)
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