2012年01月

広野小 二宮金次郎像と奉安殿跡

000006.jpg
▲写真提供:広野小学校校長先生
 広野小校門を入っての石碑周辺は、戦前における広野小教育の歴史が、象徴的に凝縮されている感がある。創立期の松本譲先生の碑、尋常小学校時代の井上周平先生の碑、御大典記念(昭和天皇御即位記念)と刻まれた石柱、修身を代表する人物二宮金次郎の像、そして、社こそないが原型をとどめている奉安殿跡などがうかがえるからである。
 広野小の二宮金次郎像は、戦前の修身教育がさかんであった当時に建立された。台座裏面に、昭和9年7月10日橋北関平作とある。「勤倹」(きんけん)と書かれた立派な台座に比べ、塗りがはげてコンクリ部分が剥(む)き出しになっている、不自然に小さな像は、戦時中供出した銅像の代替品ではないかと想像されるが定かではない。

広野小 二宮金次郎像と奉安殿跡の続きを読む

広野小裏山 小祠に祀られている広野神社

jin5.jpg
 広野小学校裏山に小祠に祀られている広野神社(2012.1.15取材)
 広野小学校給食室の裏山に、学校の敷地に接して小さな社があり、広野神社として今も祀られている。ごく最近、広野神社と書かれた真新しい木造の鳥居が建てられ、その存在が明示されるようになった。それまでは、茂みの中に位置していて、近隣の氏子以外には、ほとんどその存在が気づかれにくい状況にあった。
 平成4年、岡山の年配の女性から広野小へ次の要旨の問い合わせがあった。


 「私は、元河面(こうも)出身の者だが、何十年ぶりかで津山を訪れる機会を得た。子どもの時分、病気し吹き出物にも困っていたとき、学校の周りのお宮さんにお参りして大変おかげを受けたのを覚えている。ついてはお礼に参ってみたいので、その場所を教えてほしい。」
その時私は、「学校周辺にはお宮はなく、河面の八幡様か福井の金刀比羅宮(ことひらぐう)ではないか。」と応えたが、私自身不明を恥じる次第となった。
 後で分かったことだが、校長室にある広野小初期の藁(わら)ぶき校舎を描いた絵に、広い参道と鳥居が校舎のそばに描かれている。また、江戸時代、「東作誌」の田熊村上分にも、小祠の祭神の記述が見られ、古くからの存在が裏付けられた。社伝は明らかではないが、社のなかに「広野神社御本殿再建正遷(せいせん)座鎮祀(ざちんし)当社氏子安全斎主宮司 豊田元留 昭和四九年壱月弐拾七日」と銘がある。

広野小裏山 小祠に祀られている広野神社の続きを読む

東日本大震災被災者への支援物資(略礼服、ミシン)のお願い。

DSC02541.jpg津山ホルモンうどん研究会から,東日本大震災被災者への支援物資(略礼服・ミシン)の提供のお願いです 津山ホルモンうどん研究会は つやまNPO支援センターと合同により 東日本大震災で被災された方々への支援活動として 現地から要望のあった「略礼服・ミシン」の提供を行うことになりました。
 提供品については、震災から丸1年が経過する3月11日に合わせて、遺族の方が慰霊祭や追悼法要等に使用される略礼服が不足しているとの要望に基づいて、そのサイズ調整を行うミシンも含めてご提供をお願いします。

・略礼服については、新品もしくはクリーニング済みのものとし、サイズを明記のこと。(号数や身長、ウェスト)男性用・女性用、夏・冬服は問いませんが和服は不可とします。

・ミシンについては、新品もしくは使用可能なもので、足ふみ式等の大きなものは不可とします。

 提供可能な方は、2月12日までに、つやまNPO支援センター(津山市井口21-1、津山市コミュニティセンター「あいあい」)までご持参ください(月曜日は休館日)。

津山ホルモンうどん研究会は、B級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会(通称:愛Bリーグ)による炊き出し支援等、これまで3度(H23年6月、8月、11月)被災地支援活動を行っています。次回は3月9日~11日に、支援活動を予定しております。どうぞよろしくお願いいたします。

絵手紙・写経・備前焼 「ほほえみ展」

m3.jpg
ほほえみ展 ~絵手紙・写経・備前焼~(2012.1.20)
 2012年1月20日(金)~2012年1月22日(日)まで、趣味として絵手紙や写経、備前焼を楽しんでいる人たちのグループ展がありました。このグループは、ふとしたきっかけから作品を作る楽しみに出逢った人たちの集まりだそうです。また、病気でご自身の手が動かなくなったとき、リハビリにと思いついたのがきっかけで、写経を始められたのだそうです。今では病気も克服されお元気に活躍していらっしゃいます。書の持つ不思議な魅力感じてくださいと語っておられました。

絵手紙・写経・備前焼 「ほほえみ展」の続きを読む

2012年1月のイナバ化粧品店は賑やかです。

kaijyo.jpg
▲2012年1月のイナバ化粧品店内は海の男海上保安官のみなさんの元気がみなぎっていました。
 イナバママは店内のお客様の応対に忙しい中で「今年もよろしくお願いします。」と和やかな笑顔でお話くださいました。イナバママ曰く「この年まで働けて、私は幸せなんだなぁ~と思うようになったんです。今は地区の老人会などに出席して楽しんでいます。」とのこと。その後、神戸から来られた海上保安官の皆様と記念撮影。また、1月22日に来られた店内のお客様と次々に記念撮影に応じられていました。(なんでも海上保安官の皆さんと楽しい会話をなさったそうです。)
2012年1月のイナバ化粧品店は賑やかです。の続きを読む

福井 整った石室の土居「火のかま古墳」

古墳5.jpg
福井 整った石室の土居火のかま古墳 (2012.1.15取材)
 片山・桑田集落から四つ立橋を渡ると、大崎方面と勝央方面に道が別れている。
その福井から勝央町にぬけるゆるやかな坂道(工門勝央線)を数百m上って行くと、右手の道べりに木の茂った小さな墳丘が見られる。これが、土居火のかま古墳であり、別名穴塚と言われてい古墳である。
 墳丘部の東側は、ぽっかり穴が空いており、入口に「史跡土居火のかま古墳指定 広野地区文化財保護委員会」の標識が立てられている。昭和50年代後半に、広野の公民館活動のなかに文化財保護委員会ができ、こうした文化財標識を設置する活動が行われた。
 古墳の中は、大きな石を使って整えた石室が見られ、石室だけから言えば、がっちりとした立派な保存状態の横穴式石室である。この古墳の規模は、周辺が段差のある耕地となっていることから、基底部分はもっと広がっており、おそらくは今に倍する大きさの円墳ではなかったかと思われる。

福井 整った石室の土居「火のかま古墳」の続きを読む

福井 新宮城に関わる伝承の真宮神社

堂.jpg
福井 新宮城(しんぐうじょう)に関わる伝承の真宮神社(しんぐうじんじゃ)2012.1.15取材
 福井より大崎に向かう道中、土居の公会堂の周辺は、花畑がありきれいに公園化されている。そこに、真宮神社の立派な石造りの鳥居が見られ、その鳥居には、「明治33年10月」と刻まれている。また、鳥居の側に細長い石に刻んだ歌碑があり、「幾千代の栄を古めて 国安らふ可みの御前に植し常盤木 明治19年9月11日 安藤直清 61才」とある。惜しまれることには、常盤木と詠まれた松は、株だけ残して今は存在していない。
 鳥居をくぐり、広戸川に沿って木立の参道を百数十メートルほど下ると、真宮神社の境内に至る。神社は、新宮山の南山麓の林の中に鎮座し、背後に巨大な岩壁がそそり立っており、一見して古代の磐座を想起させる環境にある。新宮城の築城以前から、新宮山が「神の山」と呼ばれていた所以であろう。

福井 新宮城に関わる伝承の真宮神社の続きを読む

田熊 南北朝動乱時代の山城 下木の岩黒城址

岩黒全景.jpg

 ▲田熊(たのくま)南北朝動乱時代の山城 下木(したぎ)の岩黒城址(いわくろじょうし)
 広戸川を渡り、下木の集落から東の山手に上ると、高い所に公会堂がある。この公会堂の上の平坦な丘陵地が、岩黒城址(いわくろじょうし)と言われている。
 今は、全く畠となっているが、ここからは、田熊や野田(勝北)の水田地帯や日本原高原の景色が一望できる。一方、田熊の水田地帯から城址を眺めると、平地に突き出た山裾の丘陵を利用した山城であることがよく分かる。
岩黒城址については、美作古城史(三)に次の記述がある。
 「津山市田熊(元勝田郡広野村)に岩黒城址があり。井上蔵人(いのうえくらんど)の居跡と伝えられ、東作誌には、古城 岩黒城 城主井上氏今は百姓持林となる。堀切の跡纔(さい=わずかに)見ゆ 少し切りならしたる跡ある而巳(のみ)なり 云々と載せてあり、古城麓に現存する井上氏がこの城の関係者として伝えられている。」(2012.1.9取材)

田熊 南北朝動乱時代の山城 下木の岩黒城址の続きを読む

津山ちぎり絵サークル展

e1.jpg
平成24年1月13日(金)~1月16日(月)まで、第33回津山ちぎり絵展(津山サークル主催)が、津山市立文化展示ホール(アルネ津山4F)でありました。どの作品も、和紙で作ったと思えないほどの力作でした。また、和紙の見本が展示してあって、和紙にも色々と種類があるのを知りました。日本の和紙は暖かくてやっぱりいいですね!

津山ちぎり絵サークル展の続きを読む

堀坂の「釜の口用水」トンネル

hori13.jpg
▲釜の口暗渠(2012.1.7取材)
 釜の口暗渠は、掘坂上の稲荷山の下を暗渠で掘り抜き、釜の口井堰から加茂川の水を引いて水田の54町歩に潅漑した水の隧道です。これは作北の水の青の洞門(勝田郡誌)といわれています。文政5年(1882年)2月に起工し翌年の3月に完成したもので、その延長は54年間(約100メートル)幅7尺(口径約2メートル)高さ9尺(一部)の規模を有し、それまで北へ水路を掘って水を逆流させて潅漑水にあてていました。工事完成により掘坂水田が、干害の憂いから救われて増産の役割を果たしました。
 建設当時、常陸国土屋藩(茨城県土浦市)の支配下にあった堀坂は、度重なる洪水により井堰の流失に悩まされており、山本吉次郎、曽根興右衛門、左子藤兵衛、曽根源吉、杉田健次郎、本郷甚臓らが近長の名代官亀田清助に請い、銀26貫匁を借り受け金を用意し、代官は和算の大家であった田熊の中村周介に相談しました。
 周介は難問解決のため岩山を利用した暗渠用水を設けることを思いつき、若い甥の中村嘉芽市(17歳)に工事の測量設計をすべて託しました。岩山を両側からくり抜く工事は、藩と地元農民の全面協力により通水したものです。(文:津山市 堀坂町内会発行 わがまちの歴史より)

堀坂の「釜の口用水」トンネルの続きを読む