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広野小 二宮金次郎像と奉安殿跡

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▲写真提供:広野小学校校長先生
 広野小校門を入っての石碑周辺は、戦前における広野小教育の歴史が、象徴的に凝縮されている感がある。創立期の松本譲先生の碑、尋常小学校時代の井上周平先生の碑、御大典記念(昭和天皇御即位記念)と刻まれた石柱、修身を代表する人物二宮金次郎の像、そして、社こそないが原型をとどめている奉安殿跡などがうかがえるからである。
 広野小の二宮金次郎像は、戦前の修身教育がさかんであった当時に建立された。台座裏面に、昭和9年7月10日橋北関平作とある。「勤倹」(きんけん)と書かれた立派な台座に比べ、塗りがはげてコンクリ部分が剥(む)き出しになっている、不自然に小さな像は、戦時中供出した銅像の代替品ではないかと想像されるが定かではない。

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▲広野小の二宮金次郎の像
 二宮金治郎は、二宮尊徳(そんとく)とも言われ、相模(さがみ)国(神奈川県)の篤農家(とくのうか)であり、19世紀前半、水野忠邦に見いだされ、農 村復興に手腕をふるった農政家であった。勤勉と倹約によって没落した生家を再興し、農村救済に力をいわれたことから、篤農の模範となり、その取り組みは、 やがて報徳社運動として、全国に広がっていった。こうした史実を背景に、戦前には、今の「道徳」に相当する「修身」に大きく取り扱われ、全国的に学校に銅 像が置かれたり、文部省唱歌として、「二宮金次郎」の歌も唄われたりしていた。
"しばかり、なわない、わらじ」をつくり、親の手助け、弟を世話し、兄弟なかよく、孝行つくし、手本は、二宮金次郎"
 忠義の次に親孝行のうえに、兄弟仲良く、質素勤勉で世のため人のために尽くした。そのうえ歩きながらも勉強を怠らない努力家であったとされ、まさに子ども達にとって、見習うべき人物として、教訓の範とされた。
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▲奉安殿跡の敷地
 なお、人物本位の初等科修身(一)では、3年生で二宮金次郎を習っていた。
 奉安殿の跡は、石碑の背後の階段、百葉箱(ひゃくようばこ)周辺の舗装された敷地等に見られる。奉安殿は、天皇の御真影(ごしんけい)と教育勅語が奉納されていた社(倉)であり、最も神聖な場所とされた。広野小学校沿革誌によると、教育勅語については、「明治24年1月30日、教育勅語、謄本御下賜(とうほんごかし)」とある。なお、奉安殿は、昭和15年広野太郎氏の寄贈等により建設されている。関連して、広野小百周年記念誌には、次の記事がある。
 「昭和15年に奉安殿が完成した。天皇陛下の写真と勅語を入れる倉である。祭日にはその倉より、教頭先生が教育勅語を恭しく三宝の上に載せて捧げ持ち、テーブルの上に置かれる。それを校長先生が、おそるおそると思われるような手つき蓋を開け、「朕惟うに...」と読みかけられる。私たち児童は、何の疑問ももたずに頭を下げた。隔世の感が深い。校長先生と教頭先生の真白い手袋が、今もはっきりと目に残っている。(昭和14年卒業 久常徳光)」
 奉安殿は儀式と深いかかわりがあり、この当時の記録としては、隣の勝北・勝加茂小での竹内途夫著「尋常小学校ものがたり」(平成3年、福武書店発行)に詳しい。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)