福井 整った石室の土居「火のかま古墳」

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福井 整った石室の土居火のかま古墳 (2012.1.15取材)
 片山・桑田集落から四つ立橋を渡ると、大崎方面と勝央方面に道が別れている。
その福井から勝央町にぬけるゆるやかな坂道(工門勝央線)を数百m上って行くと、右手の道べりに木の茂った小さな墳丘が見られる。これが、土居火のかま古墳であり、別名穴塚と言われてい古墳である。
 墳丘部の東側は、ぽっかり穴が空いており、入口に「史跡土居火のかま古墳指定 広野地区文化財保護委員会」の標識が立てられている。昭和50年代後半に、広野の公民館活動のなかに文化財保護委員会ができ、こうした文化財標識を設置する活動が行われた。
 古墳の中は、大きな石を使って整えた石室が見られ、石室だけから言えば、がっちりとした立派な保存状態の横穴式石室である。この古墳の規模は、周辺が段差のある耕地となっていることから、基底部分はもっと広がっており、おそらくは今に倍する大きさの円墳ではなかったかと思われる。

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 古老の話によると、明治の40年(1907年)ごろ、盗掘にあって出土品らしいものは何も残っていないし、ここの古墳のくわしいことは何も分からない。ただ入り口の蓋石だけは、民家の庭石として使われてはいるが、所在ははっきりしているとのことである。
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 この火のかま古墳は、市の埋蔵文化財センタ-でも、所在以外は具体的な把握ができておらず、詳細不明である。
 しかし、この類いの古墳は、市内で佐良山や総社など、あちこちに存在しており、近辺では加茂の万灯山古墳や鏡野の真加部火の釜古墳など有名なものがあり、かなりのことが判明している。 
 一般には、火の釜は横穴式石室に共通してつけられている呼び名であり、その築造技術からして、古墳時代末期のいわゆる群集墳ができた頃の古墳と言える。年代的には、6世紀後半から7世紀前半にかけて、築造された地域の有力者(小豪族)の墳墓であり、美作地方では、石室内部に陶棺や木棺が収められ、しかも埋葬者が一人に限らず何人かの場合が多いなどの特色をもっている。出土品は、須恵器と言われる土器のほか、死者が生前身につけていた副葬品があり、今日、津山市の弥生の里埋蔵文化財センタ-で数多く見ることができる。
(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)