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取材記事内を検索ワード「勝南霊場」で検索した結果,9件の記事が見つかりました。

逧田の合祀されているお大師堂(福井)

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 福井の片山・桑田集落の南には、広戸川が流れ、木造手すりの草町橋がかかっている。この草町橋を渡って、小峪に抜ける山道にさしかかった丘の上に、お大師堂が祀られている。
 ここら辺りは、逧田と言う地名であり、このお大師堂には、「勝南霊場第拾九番御本尊 薬師如来」の表札がある。一般に、お大師堂と言って、本尊に薬師様を祀っている事例が多い。正しく言うと、これは薬師堂である。お薬師様、すなわち薬師如来は、東方浄瑠璃世界に住んでいて、現世利益をはかる医薬に権威を持った仏様である。昔はとくに医療治療がままならなかった農民にとって、病気平癒・無病息災を願う気持ちは切実なものがあり、薬師如来にすがる信仰は、強いものがあった。
 この逧田のお大師堂の創建は不明だが、お大師信仰・八十八か寺巡りが盛んであった戦前の、昭和12年(1937年)に改築されている。だれがどのような協力のもとに建てたか、後年よくわかるように、金銭や人歩・資材の寄付録が、内部の壁に掲げてある。「薬師堂改築寄付録」(金銭寄付)では56名、「薬師堂改築寄付録 人歩及び材料」では、54名の住民の名前が記されており、小字部落の片山・桑田・小峪(以上、有為組)と岡・東岡・横尾(以上 三結団)が共同しての出資や奉仕により、再建したものである。また、昭和30年に屋根の葺き替えをしているが、この時も63名の住民の名が記されて、住民みんなこぞっての協力によるものであることがわかる。

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合祀されている大日如来とお薬師様(福井)

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 福井の小字本平集落の西側は、丘陵性の山地であり、それぞれの谷筋に山道がついている。集落北端の山麓山道を少し上がると、谷筋に南面して仏様を祀っている比較的新しいお堂(逗子)がある。標札に「勝南霊場第弐拾弐番 御本尊薬師如来」とはっきり書かれている。また、内部の板には、「金剛三昧院第七五番 札所」とある。
 これが、本平の住民がお参りしえいるいわゆる「おやくしさん」である。さらに、祭壇を見ると、光背をもった小さな薬師様の像と共に、高さ1m近い梵字の刻まれた石碑が並んで祀られている。
 石碑の正面は、珍しく全て梵字で書かれており、この石碑は、本格的な信仰対象の石仏様であることが分かる。
 側面に「延享元甲子天十月二八日」と刻まれている。延享元年は1744年であり、徳川吉宗の政治が行われていた江戸時代半ばのかなり古いものである。清瀧寺さんの解読で判明したとのことであるが、梵字の石仏は、「大日如来」の仏様であり、河面の旧真加部街道筋の大日如来とは類型を異にしている。

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若宮様・勝南霊場第16番弘法大師(黒坂)

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黒坂の遊屋八幡神社の道を挟んだところに祠が見えた。何だろうと細い道を上がると小さな祠と鳥居がある。見ると若宮様と勝南霊場第16番弘法大師(黒坂)だった。由緒も解らないが丁寧にお祀りされているので撮影し掲載することにしました。
 ※若宮大神 全国的に若宮という神社が多くあります。この神社の由来は、非業の死を遂げた者がたたるのを恐れて、巫女や神職の勧めで神として祀った場合が多いといわれています。
若宮様・勝南霊場第16番弘法大師(黒坂)(2017年8月20日撮影)

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第18番札所 袖椀観音(福力)

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 堂内には、弘法大師と袖捥観音を祀っています。堂の表には3っの表札がかけられています。
【勝南霊場第18番観世音菩薩(白札)】
 高野山支部勝南祈四国18番霊場(木札)
 勝田西国 第12番(木札)
 この3種で、霊場巡りは、明治20年(1887年)頃から盛んになりました。
 昭和10年(1935年)頃でも、先達を中心として白衣姿の巡礼が札所を巡っていたのが見られ、札所近くの人が接待や仮宿をしていました。この巡礼めぐりの創設は、718年頃と言われています。
 【由来】文久元年(1861年)、辛酉の年のこと、殿さまは松平慶倫公で、前年には徳川幕府の大老井伊直弼が水戸浪士に討たれるという大事件【桜田門外の変】がありました。

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第82番札所 弘法大師(西吉田)大師堂

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第82番札所 弘法大師(西吉田)大師堂 昭和44年10月4日建立
 勝南霊場札所は、四国霊場の八十八ヶ所をこの勝南郡【新田、池ヶ原、福力、中原、里中原、名坂、植木、金井、西吉田、旧広野村、旧河辺村】に八十八ヶ所を作ったものです。
 第1番札所は、新田の公会堂の前に駐車場があります。以前、そこは宅地で家があって、屋号は荒神堂、そこが始まりでした。第2番札所は、以前、福井照夫氏宅の屋敷内にありましたが、現在、本尊は第八十八番に移しています。(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)

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光伯地蔵様(西吉田)

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光伯様納涼祭【勝南霊場30番札所】
 光伯地蔵堂は、出羽国湯殿山本道寺の修行僧が六十六部の経典を納めながら諸国を巡っていましたが、西吉田村で亡くなってしまったとのことです。村人が街道沿いに葬ったところ、その後墓に参ると、足の病が治るとの言い伝えが広まり、美作近郷を始め、亰、大坂からも人々が参るようになりました。現在、平成3年に建て替えられた新しい地蔵堂に安置されています。(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)

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北向地蔵菩薩(津山市河辺)

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⑩北向地蔵菩薩
 北向き地蔵菩薩は、勝南霊場八十番に指定されており、社は小さいが有名なお地蔵様で、北を向いている所から、今の呼び名となっています。
 今は合格祈願等でお参りされていますが、以前は疣(いぼ)・できもの取りの祈願がされていたそうです。特に子供におかげがあるそうで、素朴な地蔵がまつられています。
 北に向かってまつられていることが、とてもめづらしいそうです。

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福井 伝承の正伝寺(廃寺)本尊十一面観音様

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2013年2月3日(日)取材

 福井の土居地区に、新宮城とかかわって、古い伝承をもつ歴史的にも貴重な観音様が現存している。場所は、火のかま古墳の南、谷をへだてた通称山田といわれる林の中の墓地群の一角にある。ブロックに囲まれた倉庫風の観音堂に安置されており、人よりも大きい、お堂にふつりあいな立派な十一面観音様である。
 神宮山木下伝記によると、この観音様は、現福井八幡宮のできる以前に、その他に建立されていた宝昌山正伝寺ゆかりの本尊様と記されている。
 そもそも、八幡宮の前身宝昌山正伝寺は、新宮城ができたとき、清瀧寺地鎮和尚の勧めで、城の真東に禍事を払い武運長久を守護するお寺として建立された。その本尊として、清瀧寺と同様の十一面千手観音が、京よりわざわざ仏師を呼び寄せて製作され、長元6年(1033年)盛大な祭祀でもって安置され、以後多数の人々の参詣で賑わっていた言う。
 ところが、新宮城が落城した翌年の文治元年(1185年)、縁日の法要のさなか正伝寺が誇る五重の塔より出火し、お寺が全焼する大火となった。危うく本尊の観音様も焼失しそうになった時、熱心な信者により救われたと言う。
 以下、その伝記の記述である。「宝昌山正伝寺観世音縁日にて例年の法会あり、多くの善男善女参詣の最中 九つ下り、五重の塔の中央火の室より突然出火してにわかに燃え上がる。衆人驚き消さんとすれど宝昌山には水乏しければ防ぐ便なく瞬く間に本堂に燃え移りたり。土居平の中に長く仲間奉公して居りたりし岡西喜六と呼びなす者、常に観世音に信心して今日も参詣し居りしに出火に驚き、尊き観音様を焼きては恐れ入ると、直ちに本堂に飛び込んで応援の諸人と厨子を担ぎ出し、暫して土居の畝へ持ち来たり菰を敷いて其の上にも菰をかけて当分雨露をしのぎ、その後粗末なる堂を建立し安置し奉り信仰するところより、霊験あらたかなれば平中の者も追々信仰し~明治維新の神仏混合引き分けの達しにて、西の丘の現在地に移転さられたり。なお、表柱の突石は、正伝寺の突き石にて蓮華形あり。」

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福井 絵馬が往時を語る金比羅宮

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福井 絵馬が往時を語る金毘羅宮2012年2月12日取材
 福井の街道筋の二つ池の南山手に金比羅宮がある。こんぴらさんの通称で信仰されているが、四国琴平の金毘羅宮より勧請され、祀られたお宮であることは言うまでもない。
 金毘羅宮の神は、本来、薬師如来十二神将の一人宮毘羅大将であり、とくに航海安全・交通安全の御利益で知られているが、さらに家内安全・商売繁盛・開運出世など幅広い御利益でも人気が高い神様である。江戸から明治の時代にかけて、伊勢参りとともに、一生に一度は金毘羅参りをすべきものとされ、その参詣は信心深い庶民の念願であった。森の石松の金毘羅参りは有名な話だが、とくに江戸時代後半には、町人文化の広がり、商品流通の進展・金毘羅道などの交通網の整備などを背景に金毘羅参りが流行した。 (文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)

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