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取材記事内を検索ワード「地蔵」で検索した結果,186件の記事が見つかりました。

河面 農耕と深く関わる二つの地神様

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▲花屋・高畑の田んぼの中の地神様
 河面の上原集落に上がる三叉路の所に、コンクリートで固められた台座の基に、むすび型の石碑で地神様が祀られている。 
 「地神」と大きく刻まれて、川石の裏面に「大正5年4月建 上原講組」と建立した年代を明記してある。(大正5年=1916年)
 また、河面には今一つ、小字の花屋・高畑の田んぼの中で、かつて広山八幡宮の御神輿が立ち寄り神事が行われていたと言われ、いまでも幟が立てられる旧神事場に、ほぼ同じ大きさの地神様が祀られている。
 「地神」と刻まれた丸い川石の裏面に、これまた、「大正4年9月 高畑花屋」と明記されており、これら二つの地神塔が、ほぼ同時期にできたことが分かる。
 この地神様は、百姓の神様として広く各地で祀られている。
 ルーツは、平安以後広まった地蔵信仰の一形態であり、「地蔵菩薩本願経」の内の「地神護法品11」に「堅牢地神の守護を受けて地蔵菩薩を供養すれば土地が豊かになり、家が永く安らかになるなどの御利益を受ける」と説かれていることなどに由来している。たびたび凶作飢饉にみまわれた江戸時代半ばころから流行しだし、明治~大正ころ急速に建立が流行したようである。河面の二つの地神塔ができた背景には、大正3年(1914年)の干害や、4年の暴風などによる凶作が考えられる。地神信仰は、構造改善を終えた現在においても建立されており、農村地域に根強い信仰が続いている。
 地神様の祭りは、本来、春秋の彼岸の中日に最も近い戊の日に当たる社日に行われていた。この日は、地神講、社日祭と呼んで、田畑に入らない、土をいじらない日として農作業を休み、部落の当番が世話をして地神様の祭りを営む。地神塔には、注連縄を張り、酒や米をお供えをし、お祈りの後には、各戸から集まった皆で、簡単な飲食をする習わしであった。
 農作業の形態が大きく変わった現在、上原地区の事例で言うならば、彼岸前後の休日の日、道直しや溝掃除の共同作業の後、地神様をお祭りしている。疲れなおしをかねて、その広場で簡単な会食をしている様子となっている。
 なお、花屋の地神様のある旧神事場の二つの小祠は、部落・株などを守護し火伏の役を果す三宝荒神様と、地鎮の神様を八幡祭礼日に合わせてお祭りしている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年5月31日取材

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寂静山  教本寺

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岡山県津山市大谷にある【浄土真宗大谷派】寂静山 教本寺  (2012.6.15日取材)
開基は、楪備前守右近正廣入道で、天正2年9月。真言宗備永寺を建立す。後、教本寺と改号する。享保14年真宗に改宗する。
 教本寺の現住職、楪葉智章(ゆずりは ちしょう)さんは15代目だそうです。元々は高倉にあったお寺で約50数年前に大谷に来られたそうです。
ここのお寺の門は3つもあり、一つ目入り口の山門、二つ目が、地蔵院にあった松平家の門(松平家の門は文豪谷崎潤一郎が疎開していた地蔵院内の宕々庵を壊すときに買い受けた門だそうです。)で、もう一つは大変立派な龍が彫ってある門です。

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曹洞宗 成興寺(じょうこうじ)

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曹洞宗 成興寺
 沿革
 そもそもの成興寺開基は、夢窓国師(京都天竜寺開山)と伝えられ、JR因美線美作河井駅から登る矢筈山上にありました。久しく廃絶していた寺を天文年中(1532~54)に、草苅加賀守衡継が矢筈山頂に居城を築く際、菩提寺として再興しました。(成興寺丸跡あり)
 天正12年(1584)草苅氏退城後、寺も廃址に帰しましたが、文禄3年(1594)に草苅氏の家臣で、小中原の土豪中西孫左衛門が、現在地に再興しました。元禄2年(1689)津山西寺町長安寺三世白善嶺雲和尚が曹洞宗に改めて開山となりました。現住職小倉玄照和尚は、第十三世。(2012年4月21日撮影)文:曹洞宗 成興寺(津山市加茂町小中原41)

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清瀧寺 六十六部 廻国供養と六体地蔵

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清瀧寺仁王門に隣接した東の土手際に、江戸時代の民間信仰を代表する地蔵の石塔や大日如来、六十六部廻国供養等の供養塔がある。
多数現存している大日如来の供養塔については、後述するとして、時折散見される六十六部の廻国供養塔に注目したい。
清瀧寺の供養塔には、「宝永五戌 祈 願主 (梵字)六十六部廻国供養 十一月十八 春教」とある。六十六部とは、俗に六部とも言われ、本来は厨子を背負い、書写した衆生救済の法華経を全国66ヶ国の霊場に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を遍歴して廻る行脚僧のことである。鎌倉時代末期に始まっているが、江戸時代には俗人も行い次第に大衆化した。男女とも白地の木綿の着物に、手甲、甲掛、股引、脚絆といった巡礼姿で鉦を叩き、鈴を鳴らして巡回した。
宝永5年(1708年)といえば、江戸時代半ば、大阪~東海で大地震があり、富士山が大噴火した惨害の翌年であり、春教という行脚僧の心境がしのばれる。(2012.3.21)

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広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑

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広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑
 広野保育園の南側で、南北に通じる市道福井線と、東西の旧真加部街道の接点に位置する道ベりに、地元の人が言う六部の碑が祀られている。
 六部の碑とは、正しくは全国六十六部廻国供養塔のことである。世の平穏や民生の安定を願って、全国六十余州の有名社寺を行脚して、法華経札を納めて廻る遍歴の僧侶たちを本来、六十六部と称した。しかし、江戸末期には次第に大衆化して、村々を廻って戸口毎に拝み米や銭の御布施をもらって歩く、遍路姿の在家の巡礼者たちをも総称して六部と言うようになった。彼らは廻国道中に村人の協力を得て、往来の多い道筋あたりに、こうした供養塔を建立した。今日に残るあちこちの供養塔に六十六部の記名がある所以だが、近くでは、清瀧寺仁王門そばの廻国供養塔とおなじ類いである。

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曹洞宗 澤龍山 少林寺

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曹洞宗  圓通閣 澤龍山少林寺(美作三十三観音十一番札所)(2011.5.4)

開創 1525年(大永5年)
本寺 久米郡美咲町 夢中山幻住寺
開山 大網愚溪大和尚(幻住寺6世)
当山は、小森山圓福寺(中北上1319番地)と称していたが、後醍醐天皇が隠岐島を脱出、船上山の名和長年に身を寄せられた1333年頃兵火によって焼失。
その後180年程そのままになっていたが、1516(永正13)年11月に幻住寺六世大網愚溪大和尚が、当時の岩屋城主大河原弾正の懇請を容れて、後に少林寺末寺となる観音寺となった地(中北上1161番地)に小庵を建立し、山号を山形臥龍に似たるを以て澤龍山とし、1525(大永5)年に「澤龍山小林庵」と称し開堂。
1597(慶長2)年、大河原弾正の三男智麟首座小林修理の修繕を得て、庵から寺に改称「小林寺」とした。
1767(明和4)年頃の中北上村は、相州小田原の大久保藩の領地で西川(現在の美咲町)代官所を設けて領内を支配していた。当山七世物外璿山大和尚が、その西川代官高橋文右衛門の賛助に依り、50余ヶ村民の出役を得て現地に移転し寺名を小から少に改め「少林寺」とした。
本堂・開山堂は、1993(平成5)年再建。本堂内には当山に金龍銀龍が舞う幅3・3mの見事な壁画が一対あり、津山市・山形弘画伯の作品である。
本尊「十一面観世音菩薩」は、岩屋城を築城した山名教清寄進の岩屋山慈悲門寺の本尊であったが、当時(戦国時代)の情勢により開基・大河原彈正が少林寺に移したものと伝えられる。【資料提供:曹洞宗  圓通閣 澤龍山少林寺】

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千人塚-三界萬霊塔-

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<最初の三界萬霊塔-千人塚->
 江戸時代、津山藩では、はじめは罪人の処刑場は城下町西はずれにある筋違橋の外側にあったが、その後処刑の場所は川辺河原又は兼田河原になった。兼田は城下町の東部の川崎村の一部で加茂川の西岸に位置し、この場所はまた出雲街道の渡し場でもあった。往来の多い所へ刑場を設けて、みせしめにするという意図があったためと思われる。
 川辺河原、兼田河原での処刑の記録は数多く残されている。
 多くの罪人が怨念を抱きながら生命を捨てた兼田河原に、いわゆる千人塚が建てられたのは寛政2年(1790年)で、高さ5尺余(1.5m)の塚の正面に「妙法 三界萬霊塔」、側面に願主としての「泰安寺剛誉、地蔵院大賢、本願寺神宗」、裏面に願文が刻まれている。願文の要旨は次のようである。「作州津山領の川崎村兼田に石碑を創建して有罪の亡魂を供養回向しようと欲する。時に寛政2年庚戌、2月吉日。」萬霊塔を創建して供養する。
この功徳をもってあまねく有罪の亡魂を導いて一切の満霊が同じく覚りの路を登らんことを願うものである。
 時の藩主は康哉で、願主の三寺は松平家とは特に関係が深く歴代藩主はしばしば参旨した。
 なお、その後も引き続いて明治初年までこの地で処刑が行われた。

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堂明様(堀坂地区)

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堂明様
 中土居にある堂明様は毎年4月3日を中心に土居でお祭りをしている八幡道地蔵(通称:堂明様)であり、寛文11年(1671年)新野上分字今宮から現在地に移したものです。この地蔵菩薩様は当時村落でよくないことが次々と起き、こうした悪事をおさめるため、お祀りされていると言い伝えられており、この時期は西法寺が堀坂へ引遷してきた同じ頃です。
 お地蔵様は広大無辺な宇宙を浄化する無限の徳相で、無信心の人でも罪多き人でも、一心にお地蔵さんに念じればその罪を浄化し、病苦も災難も全て救済してくださると伝えられています。(津山市堀坂町内会発行:わがまちの史跡より)

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瀧尾山 西法寺

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瀧尾山 西法寺(2011.7.10取材)
 この寺は天台宗(伝教大師・最澄)瀧尾山西法寺といい、天台宗総本山比叡山延暦寺の末寺です。昔は妙原の大谷山にありましたが、山津波にあって寺が壊れたため、寛文11年(1671年)に堀坂へ移したもので、ご本尊は不動明王です。
 お不動さんは右手に剣を左手に綱を持ち、左目を閉じ口を斜めに噛みしめ、しかめた顔をして体の色は青黒く、火炎を背中に負って険しい岩場に立っています。
 大日如来の命令を受けて、人の心に住む悪魔を退治するといわれています。恐ろしい姿でですが、本当は心のさしい仏様で、心がよくない方向に向かっていると正しい方向へ戻してくださるといわれています。
 この本堂は文政8年(1825年)に建てられたもので、本堂が無事に完成することを願って参道口に六体地蔵が寄付建立されました。また平成14年4月に内仏殿と庫裏を改築し内仏殿には阿弥陀如来を中心に、伝教大師最澄、檀信徒のご先祖を祀っています。
 この寺は、加茂郷88ヶ所霊場第54番札所です。(津山市堀坂町内会発行:わがまちの史跡より)

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光伯(こうはく)地蔵(西吉田)

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植月秀俊さんの奥様のお話では、光伯地蔵様の縁日には夜店がでて賑やかだったそうです。また、足が治るとの言い伝えから、足が悪い人がわらじを持ってお参りに来ていたそうです。昔はとても大きなわらじがお供えしてあったそうです。(2011年6月25日取材)

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