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高倉神社前の地神様(下高倉西字宮前)

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地神様
 高倉神社の前に自然石に「地神」と深く刻み込んだ地神様がある。地神様は土の神で農民を守り稲の生長を助け、豊かな実りをもたらす農業の神として祀られている。地神様の祭りは春、秋の彼岸の中日に近い戊の日にあたる社日に行われ、この日は農作業を休むことになっていた。建立年代は刻まれてないが、天保から明治末年にかけて各地で建立されている。現在は高倉神社の祭典にあわせて祀っている。
2012.12.16取材(文:高倉の歴史と文化財より)

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河面 苫勝霊場めぐりの信仰上原のお大師堂

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 上原の丘陵端に民家より少し離れて、新築整備されたお大師堂がある。掲げられている額に、「苫勝霊場 第十九番本尊 地蔵菩薩」とある。 
 苫勝霊場○○番とは、かつての苫田郡・勝田郡地域の八十八ヵ所めぐりの札所(観音霊場)を言うのであって、戦前の八十八ヵ所めぐりが大変盛んであった歴史を伺わせるものである。霊場めぐりは、農閑期の春先に遍路姿で杖をつきながら歩き、数十人の団体で巡回していた。数日がかりの巡回のため、時折、上原中の民家が総掛かりで遍路宿をつとめ、世話をしていたと言う老人の話である。

 そもそも、八十八ヵ所めぐりは、観音信仰に由来し、観音霊場三十三ヵ所札所めぐりの発展した、四国の八十八ヵ所(弘法大師霊場)めぐりを示すものである。八十八基の石仏などを並べてあるのは、この霊場(札所)詣での写しで、多くの場合は、石仏などの前に、そこに示した寺院の土を埋めてお砂踏みをし、参詣と同じ意味を持たせている。八十八ヵ所の札所に参ると、それぞれ米粒を供えていく「御撒米」や、5円、10円などの硬貨を1枚づつ「御賽銭」として供えていく形の信仰は今も続いている。

 歴史的には、養老2年(718年)に西国三十三観音霊場が創設されて、弘法大師(空海)のゆかりある四国八十八ヵ所霊場が、平安初期(920年頃)創設された。一般大衆が、本格的に霊場巡りをするようになったのは、明治の20年代からと言われ、四国の場合徒歩で約60日かかっていた。そのため、苫勝の事例のように、全国各地にこれに代わる数日で参拝できる巡礼コースが創設された。

 上原の19番霊場は、四国八十八ヵ所19番霊場である徳島県小松島市の立江寺の本尊=延命地蔵菩薩を勧請されている。立江寺は、聖武天皇の勅願寺で、弘法大師の刻んだ仏像があり、阿波藩主蜂須賀公により再建された古刹である。地蔵菩薩そのものは、観音の化身の姿であり、延命地蔵は、人の苦しみを救うばかりかいざという時、身代わりとなって災難から助けてくれる、霊場あらたかな地蔵尊として信仰が厚い。上原では、一時、薮の中で薄汚れていた石仏であったらしいが、今再びよみがえり、毎日のように線香や蝋燭が絶えない住民の熱心な信仰が続いている。(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦編著より)2012.9.17

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上賀茂神社(津山市原字荒神)

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 勝加茂原字荒神にある。祭神は火産霊神・素戔鳴命・味鉏高彦根命・下照姫命をまつる。原村往古より勝加茂西上(現上村)鎮座の若王子権現を産土神としたが、明治十年その氏子を離れてもともと荒神社のあった地に社殿を建立し、旧来の荒神社の祭神に西賀茂神社及び朝吉神社の分霊を勧請合祀して、上賀茂神社と号した。(歴史めぐり資料より)2012年7月8日取材

「美作神社資料」には、「和銅元年鎮座、大永五年山名太郎左衛門常清の社殿再興、正保七年以来氏子よりその費用を献進する」とありますが、その拠るところが明確ではありません。「勝北町誌」より

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河面 農耕と深く関わる二つの地神様

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▲花屋・高畑の田んぼの中の地神様
 河面の上原集落に上がる三叉路の所に、コンクリートで固められた台座の基に、むすび型の石碑で地神様が祀られている。 
 「地神」と大きく刻まれて、川石の裏面に「大正5年4月建 上原講組」と建立した年代を明記してある。(大正5年=1916年)
 また、河面には今一つ、小字の花屋・高畑の田んぼの中で、かつて広山八幡宮の御神輿が立ち寄り神事が行われていたと言われ、いまでも幟が立てられる旧神事場に、ほぼ同じ大きさの地神様が祀られている。
 「地神」と刻まれた丸い川石の裏面に、これまた、「大正4年9月 高畑花屋」と明記されており、これら二つの地神塔が、ほぼ同時期にできたことが分かる。
 この地神様は、百姓の神様として広く各地で祀られている。
 ルーツは、平安以後広まった地蔵信仰の一形態であり、「地蔵菩薩本願経」の内の「地神護法品11」に「堅牢地神の守護を受けて地蔵菩薩を供養すれば土地が豊かになり、家が永く安らかになるなどの御利益を受ける」と説かれていることなどに由来している。たびたび凶作飢饉にみまわれた江戸時代半ばころから流行しだし、明治~大正ころ急速に建立が流行したようである。河面の二つの地神塔ができた背景には、大正3年(1914年)の干害や、4年の暴風などによる凶作が考えられる。地神信仰は、構造改善を終えた現在においても建立されており、農村地域に根強い信仰が続いている。
 地神様の祭りは、本来、春秋の彼岸の中日に最も近い戊の日に当たる社日に行われていた。この日は、地神講、社日祭と呼んで、田畑に入らない、土をいじらない日として農作業を休み、部落の当番が世話をして地神様の祭りを営む。地神塔には、注連縄を張り、酒や米をお供えをし、お祈りの後には、各戸から集まった皆で、簡単な飲食をする習わしであった。
 農作業の形態が大きく変わった現在、上原地区の事例で言うならば、彼岸前後の休日の日、道直しや溝掃除の共同作業の後、地神様をお祭りしている。疲れなおしをかねて、その広場で簡単な会食をしている様子となっている。
 なお、花屋の地神様のある旧神事場の二つの小祠は、部落・株などを守護し火伏の役を果す三宝荒神様と、地鎮の神様を八幡祭礼日に合わせてお祭りしている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年5月31日取材

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河面 奉納相撲に活躍した頭取・行司の碑

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河面 奉納相撲に活躍した頭取・行司の碑(2012.1.22)
 今日では、相撲と言えば、プロの相撲取りが行う国技館の大相撲を連想しがちであるが、昔は、各地方で素人相撲が盛んであった。幕末から明治~大正・昭和の初年まで、社寺の祭礼などにその境内で行う奉納相撲、社寺や仏像の建立修繕のために金品を募って興業する勧進相撲など、信仰と深いかかわりをもって行われた。この近辺では、すでに文化年代(19世紀初め)に植月の宮相撲は有名であった。祭の当日など相撲の興業があれば、遠近から力士や見物客が境内いっぱいに大勢押しかけた。見物客は、重箱、酒などを持ち込んで盛んに声援したもので、相撲取りは花形的存在であった。
河面のお祭り当日、今でも行われているお宮でも子ども奉納相撲は、こうした伝統を踏まえた祭礼行事といえる。

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