与謝野晶子 文学碑(美作高校)
「うつくしき五郡の山に護られて 学ぶ少女はいみじかりけれ」
明治2年、大阪府生。昭和17年没。明治・大正のロマン主義歌人。歌集「みだれ髪」を出して有名になった。「明星」の主宰者、与謝野鉄幹と結婚。人間解放の歌風で明星派の代表歌人。昭和8年に「美作学園」で講演した。(文:城下町津山文学碑めぐり資料より)(2018年5月16日撮影)
「うつくしき五郡の山に護られて 学ぶ少女はいみじかりけれ」
明治2年、大阪府生。昭和17年没。明治・大正のロマン主義歌人。歌集「みだれ髪」を出して有名になった。「明星」の主宰者、与謝野鉄幹と結婚。人間解放の歌風で明星派の代表歌人。昭和8年に「美作学園」で講演した。(文:城下町津山文学碑めぐり資料より)(2018年5月16日撮影)
秋風や城といふ名に石枯るる(津山文化センター東 薬研濠東)
明治18年、岡山県苫田郡生、昭和27年没。昭和20年、東京から疎開し津山市田町に住む。師の渡辺水巴没後、俳誌「曲水」の二代目主宰者となる。句風は穏やかで曇りなく、絵画的な美しさを持つ。(文:津山文学碑めぐり案内)(2015年10月25日撮影)
「銀杏よ、汝常盤木の神のめぐみの緑り葉を 霜に誇るに比べては何等自然の健児ぞや・以下略」
明治10年、倉敷市生。昭和20年没。津山に心ひかれ訪れた泣菫が長法寺の大いちょうを見て創った「公孫樹下にたちて」は詩集「二十五弦」の巻頭を飾る。一年後に発表された「白羊宮」は明治誌史上の絶品と言われている。(文:城下町 津山文学碑めぐり)
「絲櫻水にも地にも枝を垂れ」(衆楽園)
山口 誓子(やまぐち せいし)明治34年京都市生。昭和23年、俳誌「天狼」を創刊、主宰。
昭和54年、西東三鬼の「花冷え碑」対面に訪れた折、衆楽園を吟行しこの句を残した。平成4年文化功労者顕彰。「激浪」「遠星」「七曜」などの句集がある。(文:津山文学碑めぐり)(2016年11月12日撮影)
故郷を愛した人情作家 棟田 博(明治41~昭和63)が、故郷を題材にした作品『ハンザキ大明神』、『美作ノ国吉井川』、『宮本武蔵』、『そして、御犬小屋が残った』などがあり、多くがドラマ化された。なかでも吉井川を往来していた高瀬舟をテーマにした『美作ノ国吉井川』の女主人公・お里んの碑が津山市民の手で愛染寺に建てられた。昭和47年には津山市文化賞を受賞している。
尾上柴舟先生略歴
明治9年8月20日津山市田町北郷家に生る。本名八郎 23年3月鶴山高等小学校卒業。直頼高に師事して、和歌の手ほどきを受く。25年上京初め大口鯛二ついで落合直文の門に入り短歌を学ぶ。この年尾上家に入る。34年4月東京帝国大学文科国文科卒業。大正12年文学博士となり、東京女高師・学習院教授を歴任。これより前23歳にして短歌結社「いかづち会」を起し、明星派全盛期に対抗して反明星の炬火を掲ぐ。ついで「車前草社」を創立。門下から若山牧水・前田夕暮等、幾多の俊秀歌人が輩出した。
大正3年「水甕」を刊行、これを主宰した。終戦後は毎年宮中詠進歌の選者を努めた。一方、草仮名の名手として現代書道界の第一人者であり、昭和12年芸術院会員に推され日展書道部審査員となった。
叙景詩日記の端より、朝ぐもり・間歩集・ひとつの火・古今と新古今・平安朝時代の草仮名の研究等、歌集著書手本の類は枚挙に遑かない。(文:説明板より)
聖徳寺正門を入ってすぐ左側(新屋敷)
後年俳聖芭蕉が「宗因は俳諧の道の中興なり」とたたえた談林派の鼻祖宗因は承応2年(1653)津山を訪れ旧友快映坊のいる聖徳寺に宿して俳諧史の貴重な文献「津山紀行」を残した。
句は寺で中秋の名月を迎えほのかな旅愁を漂わせている
月見れば こよひなりけり 旅の空 西山宗因 書は彫無季氏(2015年5月9日)
三鬼の最後の弟子 白石 哲さん、俳号は白石不舎(しらいし ふしゃ)
大正13年(1924)、津山市生まれ。西東三鬼に師事。遺言により津山に西東三鬼之墓を造立す。以後俳壇と無縁も上京後三橋敏雄らと交遊、俳諧滞らず、昭和61年帰郷と共に、西東三鬼顕彰を志す。「綱」主宰。句集「作州」。西東三鬼賞委員会副委員長。
平成24年2月27日、逝去。