大谷碧雲居 文学碑(文化センター東)

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秋風や城といふ名に石枯るる(津山文化センター東 薬研濠東)
 明治18年、岡山県苫田郡生、昭和27年没。昭和20年、東京から疎開し津山市田町に住む。師の渡辺水巴没後、俳誌「曲水」の二代目主宰者となる。句風は穏やかで曇りなく、絵画的な美しさを持つ。(文:津山文学碑めぐり案内)(2015年10月25日撮影)

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大谷碧雲居 文学碑(2018年2月6日撮影)     (2015年10月25日撮影)

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 大谷碧雲居(浩)は大谷裕の二男に生まれた。大谷一族の一人で是空を養父と自らよんでいるのは進学上の問題が中心だったと思われる。明治18年に出生、同38年(1905)津山中学校を卒業、続いて東京美術学校洋画科に入った。ここの文学クラブに俳句会があり、その指導者が渡辺水巴であった。以後水巴門下として約四十年間、「曲水」陣営一本の俳句を楽しんだ、というのも碧雲居は俳句は余技であって、まさか水巴無きあと、その陣営を継承するなどは夢にも思わなかったであろう。彼は美校を出るとすぐ中外商業新報社に入社、社会、文芸の記事を担当した。
 碧雲居は大正9年に中外新報の社会部長に、昭和2年に編集局次長、同5年編集局長、同12年に取締役とトントン進んだ。編集面ではここまで昼夜を分かたず努力したことへの休養が出た。俳誌「曲水」の長老が、やっとわが家に帰って寝れると思われたが工務局長として戦時対応の工場の整備があった。19年に辞任、翌年故郷の津山に疎開、新聞社の取締役も退き、客員となった。これでホッとしたことだろう。ところがこれで津山も安住の地でなかった。同21年の8月「曲水主宰」の渡辺水巴の死去の報が入った。それは13日午後3時、鵠沼より電報あり、スイハシス、この夜月天心に澄みて清光松のにかがやき深更に及んで冷涼の気机辺に迫る、と記す。
「曲水」は水巴の死去により継承主宰者に門下一同の推輓で碧雲居に決まった。24年5月14日上京する。雨の津山駅のプラットホームに立って、
 万緑の雨音始終なきひかり
 万緑の雨の汽関車にてあつし

 津山では、疎開して津山に帰った寺田喜治郎、木村善太郎、大谷。みな体が少し不自由であったが三猿が生れていた。指導精神は「俳句は写生の目的を立てた人は、写生で、象徴を好む者は象徴で、生活俳句を信念とするものは生活俳句で」と言っていた。
 24年には津山で美術展があり、碧雲居は「屏風」を描いて出品した。子どもが遊ぶ姿で、何かの思いでかもしれない、大作である。

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2015年10月25日撮影(鶴山公園)        ↑ 津山市文化協会発行『津山の人物(Ⅱ)』より

大谷碧雲居略年譜
大谷浩(こう) 俳号碧雲居、別号雨石
明治8年9月9日 岡山県苫田郡西苫田村、出生。
明治38年 津山中学校卒業。
明治43年 東京美術学校洋画科卒業、渡辺水巴門に入る。
 同 年 中外商業新報社(現在の日本経済新聞)入社、社会、文芸担当。
大正9年  社会部長。
昭和5年  編集局長。
昭和12年 取締役。
昭和20年 津山に疎開、取締役辞任、客員となる。
昭和21年 水巴逝去により曲水継承主宰。
昭和27年 東京日大病院で死去、66歳。
(文:津山市文化協会発行『津山の人物(Ⅱ)』より)