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中山神社の鉾立(ほこたて)石

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 中山神社は西国壱の軍神(厳島・吉備津と並んでその筆頭)であり、天下の大変・大乱に際しては朝廷より全国7社の一つとして特別の護国祈願を仰せつかる。例えば天慶2年(939年)平将門の乱、弘安4年(1281年)の元寇など。その祭事は格別の秘儀で、現小原地区内大築公園あたり、昔は鬱蒼たる「雫が森」その中に中山の離宮たる大築神社があった。
 秘祭「鉾立て」に神事は大築の境内で行われた。中央に大鉾、四方に小鉾を立て、大鉾前に祭壇を設けて荘厳神秘の深夜の祭典であったという。鉾立石はそれらの鉾を立てた基石で、上面中央に凹みがある。
 現在中山神社境内本殿南(国司神社)の段に、有志による由来記の碑とともに、その一石が置かれている。また祭事の行われた雫が森の跡あたりにもその一つが置かれ、地元の有志による説明板が立っている。 中山境内の石と小原のそれとは鉾立の凹みの形状が異なる点も興味を引くところである。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年4月1日撮影)

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龍の口の行場跡(津山市一宮)

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 石碑に「大峯山役行者大菩薩」とある。吉野の大峯山や金峰山は、山岳仏教発祥の地であり、修験者の根本道場でもある。ここで修業した修験者たちが、一宮のここ「龍の口」を行場とした。元禄時代道路を拓くにあたり、岩を取り除いたので、霊験あらたかな行場は無くなり「清正公」の石碑と共に、それぞれ現在地に移された。
(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年4月1日撮影)

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創置美作国1200年碑

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 奈良時代の初め、和銅6年(713)に備前の北半6郡を割いて新たに1国を創置、美作国とした。苫田郷に国府を置く。政治、経済、軍事および文化の各般にわたり中枢となる。
 明治45年4月創置美作国1200年記念式典を中山神社で挙行、このことを碑文に詳記している。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年4月1日撮影)※詳しくはここをご覧ください。

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千年寺の石燈篭両基

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 長継山千年寺は、長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。 現存するものは境内地と風致林、それから長継公五輪墓(津山 市の文化財)を中心に石柵、石窓和尚・関森和尚の碑、仏殿(本堂)・寿光堂の礎石、中の段は鐘楼、井戸、禁葷酒の石柱、山門の礎石、刹竿の双柱の1本、三 箇所の石段、千年寺への道しるべ石柱2本、下に井戸1箇所と南側の山即ち玉几岡に生き仏(開山鐡堂和尚)の墓があります。(撮影2017年4.月12日)(2014年の取材)

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昭和池(津山市東田辺地内)

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 東西一宮、高田、東苫田、西苫田地区430町歩の水田の灌漑用水確保のため、昭和3年県議会において承認され、昭和5年3月農林大臣より国庫補助の指令があり、耕地整理組合が設立され、昭和7年3月着工、昭和13年3月竣工した。総工費38万5千円。最高水深18m余。貯水量50万トン。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年3月20日・4月18日撮影)

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勝負山(津山市山方字木梨地内)

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 山頂に径12m、高さ0.5m程の古墳状の高まりが認められる。その上に勝負山の碑(土台石があるが、碑の棹が見当らない)がある。墳丘の西側には周溝を持つようである。
 永禄9年(1567)尼子氏滅亡の後、利元城主福田盛昌、毛利(小早川隆景)に属し、その子勝昌、桝形城をあずかりし天正7年4月、宇喜多直家は、その将・荒神山城主花房職秀をして之を攻む。利元城主福田盛昌は援兵を送らんとするも、職秀の兵これを山方勝負山に打たんとし、激戦の後、福田勢敗る。以後勝負山と称するはこの故なり。なお、敗れた福田氏は勝部に土着したと言われている。『苫田郡誌、久米郡誌』(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年3月20日・4月8日撮影)

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合併記念碑(下高倉東)

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合併記念碑(下高倉東有重)
 高倉小学校北の道から一段上がった高倉村役場跡の大銀杏の下に、「合併記念碑」が威容を誇っている。高倉村が近隣9か村と津山市に合併した昭和29年(1954)7月から5年を経過した昭和34年(1959)7月に、難波保外16人が発起人となり、合併5周年を記念して建てたと記されている。
合併記念碑 碑文
 和銅弐年備前六郡を割いて美作国を置く 当時より高倉川の流域及び大篠山東西の地域を含めて高倉郷或いは高倉の庄と呼び郡の中部を東西に走る街道に沿う地であった。後久しく封建制度の下に小村が独立して来たが明治22年上高倉下高倉東下高倉西の三村を併せて高倉村となし自治制を布く昭和29年周辺9ヶ村と共に津山市に合併して今日に至る。この間遠くは近平用水路の開鑿近くは土地改良事業など共に高倉の躍進を約束する輝かしい事蹟として特記すべきものがある。茲に合併五周年を記念し有志相謀り旧高倉村役場跡に碑を建て幾多先人の功を偲ぶ資料として更に後人の奮起を期待する次第である。
昭和34年7月1日 難波 保 撰

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太田西遺跡(東一宮)

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 北側グリーンヒルズの一角、一番高くて展望の良い県道沿いにある。遺跡は土が高く盛り上げられ住居跡は見られないが石名鑑がある。碑文は下記の通り。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)
 大田西奥田遺跡の縄文時代の住居跡だそうです。1993年の発掘調査により、直径3.2m・深さ25cmの竪穴式住居が発見されました。この住居跡は今から7~8千年前の縄文時代早期のもので、この時期の住居跡としてはきわめてめずらしいものです。又、この住居跡の近くからは落し穴もみつかり、この付近に集落が広がっていたものと思われます。このため遺跡の範囲を盛土のうえ遺跡広場として保存することにしました。(2016年4月17日撮影)

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かがみ地蔵(東一宮)

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脚、腰の病気に効験ある地蔵菩薩として祀られている。(2017年2月19日撮影)
 以前、東一宮の鳥居公園付近に設置されていたが、土地区画整理事業に伴い現在地に移設された由。
地蔵碑に『右 月本雲祐助』とある。同じような地蔵尊が『南条坂』にもある。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)

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【津山人】西東三鬼-俳句界の風雲児

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明治33(1900)年から昭和37(1962)年津山市南新座に生まれる。
 本名は齋藤敬直(さいとうけいちょく)。33歳の時、歯科医だった三鬼は患者達のすすめで俳句を始める。この時から使用したペンネームが「三鬼」で「サンキュー」をもじったものといわれている。
 35歳で代表作の「水枕ガバリと寒い海がある」を発表し新興俳句の有力な作家として認められたが、戦争一色となる社会情勢の中で、新興俳句は内容が革新的であることにより弾圧をうける。
 終戦後、俳句を再開した三鬼は、近代文学としての俳句の可能性を求め、俳句の復活を志した山口誓子とともに昭和23(1948年)「天狼」を創刊するなど俳句の復興に尽力。また、敗戦直後の混乱した時代に俳人が俳句で生計を立てていけるようにと現代俳句協会を創立。句集として「旗」、「空港」、「夜の桃」、「今日」、「変身」がある。
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