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取材記事内を検索ワード「碑」で検索した結果,394件の記事が見つかりました。

太田西遺跡(東一宮)

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 北側グリーンヒルズの一角、一番高くて展望の良い県道沿いにある。遺跡は土が高く盛り上げられ住居跡は見られないが石名鑑がある。碑文は下記の通り。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)
 大田西奥田遺跡の縄文時代の住居跡だそうです。1993年の発掘調査により、直径3.2m・深さ25cmの竪穴式住居が発見されました。この住居跡は今から7~8千年前の縄文時代早期のもので、この時期の住居跡としてはきわめてめずらしいものです。又、この住居跡の近くからは落し穴もみつかり、この付近に集落が広がっていたものと思われます。このため遺跡の範囲を盛土のうえ遺跡広場として保存することにしました。(2016年4月17日撮影)

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かがみ地蔵(東一宮)

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脚、腰の病気に効験ある地蔵菩薩として祀られている。(2017年2月19日撮影)
 以前、東一宮の鳥居公園付近に設置されていたが、土地区画整理事業に伴い現在地に移設された由。
地蔵碑に『右 月本雲祐助』とある。同じような地蔵尊が『南条坂』にもある。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)

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【津山人】西東三鬼-俳句界の風雲児

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明治33(1900)年から昭和37(1962)年津山市南新座に生まれる。
 本名は齋藤敬直(さいとうけいちょく)。33歳の時、歯科医だった三鬼は患者達のすすめで俳句を始める。この時から使用したペンネームが「三鬼」で「サンキュー」をもじったものといわれている。
 35歳で代表作の「水枕ガバリと寒い海がある」を発表し新興俳句の有力な作家として認められたが、戦争一色となる社会情勢の中で、新興俳句は内容が革新的であることにより弾圧をうける。
 終戦後、俳句を再開した三鬼は、近代文学としての俳句の可能性を求め、俳句の復活を志した山口誓子とともに昭和23(1948年)「天狼」を創刊するなど俳句の復興に尽力。また、敗戦直後の混乱した時代に俳人が俳句で生計を立てていけるようにと現代俳句協会を創立。句集として「旗」、「空港」、「夜の桃」、「今日」、「変身」がある。
(掲載されている写真・文章等の著作権は津山瓦版または情報提供者に帰属し、一切の無断転載を禁じます。)

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津山文化センターの冬

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津山文化センター(2017年2月4日撮影)
「日本におけるモダン・ムーブメントの建築115選」に津山文化センターが選ばれる。
「モダン・ムーブメント」は「18、19世紀に端を発する合理主義的・社会改革的な思想や技術改革をベースに、線や面の構成による美学に基づいて、40年代から世界中で作られはじめた建築」を意味し、日本でもその影響を受けたデザインが試みられています。
2006年8月に津山文化センターが115選に選ばれる。

選ばれた基準は
1.装飾を用いるのではなく、線や面の構成による美学が適用されている。
2.技術の成果がデザインに反映されている。
3.社会改革的思想が見られる。
4.環境形成(広場や建築群の構成)という観点でデザインされている。ということだそうです。
115選の中には大原美術館分館、出雲大社庁の舎、神戸ポートタワーなどが選ばれている。

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高倉小学校の記念碑

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高倉小学校の記念碑に見る高倉の学校教育
  高倉小学校の校門を入って北側の庭園に、「創立百周年記念碑」と「創立百十周年記念碑」が建っている。また、寄松池の土手から西に坂道を上った峠に、創立百周年記念事業として昭和51年(1976)10月に建立した「高倉小学校創立之地」の碑がある。
 創立百周年記念碑の題字は時の文部大臣奥野誠亮氏の書で、当時の高倉公民館長片山方雄氏の碑文が
刻まれている。碑文を補足しながら高倉の学校教育の歴史をひもとくこととする。
(2013年3月21日取材)(文:高倉の歴史と文化財より)

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鏡野八景 尊光院 圓通寺

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 高野山真言宗準別格本山尊光院圓通寺は、元総持院と号した。弘法大師帰朝後この美作の地に密教を広めるため、当山を建立したと伝えられる。
古来より西の高野また二ノ宮高野神社の奥の院と称せられたが、永禄年中福田玄蕃盛昌(毛利の武将)桝形城を築き、寺を外衛として軍士の大半を住居させた。よって城陥るに及び寺も全焼す。
時の院主成瑜法印焼趾に草庵をいとなみ法灯を守る。現在別所と称する土地で、広大な敷地跡があり、昭和二十二年「金銅仏」が掘り出された。
三十八世覚清上人檀越を説き、現在地へ再建された。
 津山森氏入封の後、当寺へ対する帰依浅からず寺領百石を寄進されている。四十七世秀範上人の時、再度焼失したが再建され、本堂の棟木に「寛延四年(一七五一)秀範七十二才これを建つ」の文字が見られ、現在の建物は二百四十数年の歴史を有す。
 近世の高僧として知られる竺道契・新弘栄師(両師に付いては岡山県大百科辞典参照)が住した。寺宝・文化財は数十点有する。(文:美作 高野山真言宗八十八ヶ所霊場HPより抜粋)(2016年12月25日撮影)

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津山城(鶴山公園)にある尾上柴舟碑

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尾上柴舟先生略歴
 明治9年8月20日津山市田町北郷家に生る。本名八郎 23年3月鶴山高等小学校卒業。直頼高に師事して、和歌の手ほどきを受く。25年上京初め大口鯛二ついで落合直文の門に入り短歌を学ぶ。この年尾上家に入る。34年4月東京帝国大学文科国文科卒業。大正12年文学博士となり、東京女高師・学習院教授を歴任。これより前23歳にして短歌結社「いかづち会」を起し、明星派全盛期に対抗して反明星の炬火を掲ぐ。ついで「車前草社」を創立。門下から若山牧水・前田夕暮等、幾多の俊秀歌人が輩出した。
大正3年「水甕」を刊行、これを主宰した。終戦後は毎年宮中詠進歌の選者を努めた。一方、草仮名の名手として現代書道界の第一人者であり、昭和12年芸術院会員に推され日展書道部審査員となった。
叙景詩日記の端より、朝ぐもり・間歩集・ひとつの火・古今と新古今・平安朝時代の草仮名の研究等、歌集著書手本の類は枚挙に遑かない。(文:説明板より)

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江部山 善福寺(大字里公文)旧久米町

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 作陽誌によると、昔、此のあたりに住んでいた肩野部氏の家に強盗が入り、肩野部氏は強盗により深手をおい再起不能となった。そこで、肩野部氏は妻に対して、「自分は命をとりとめることはとうてい出来ない。おまへは未だ歳も若いのだから、自分の死後は、やもめ暮らしをすることなく新しく夫を持って幸福にくらしてくれ。」と申し渡した。之に対して妻の曰く、「あなたが此の様な災難に遭ったのは天命であり、私が若くして夫に別れるのも亦(また)天命です。今後私のとるべき道は只一つ、天命に随(したが)うことで、それ以外に道はありません」と、早速に自分で髪を斬って再婚の意志の無いことを示した。そして夫の死後は尼となり、居宅を捨てて寺とした。善福寺がこれである。(取材2014年9月18日)

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修倫館道場趾と四季

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消えた武道場
昭和28年に全日本剣道連盟が組織され、武徳会が新しい姿となったが、剣道は終戦で一時ストップした。進駐軍が来るというので剣道用具をかくしたりしたこともある。しかし、別に禁止されたわけでもなく、学校が中止していたまでだが、一般の愛好者は鶴山公園で練習を続けていた。
 それが自治体警察の発足によって表面的にとりあげられるようになり、津山にも募金で鶴山武道場が建設された。ここで柔剣道が復活したのは28年であった。ところが、市役所税務課の火災により、武道場が仮庁舎になったまま忘れられ、津山の剣道界では、これほど盛んになっている剣道への理解がないと大いに不満をもらしている。ムリもないことで、一般の武道場はない。柔道の貝田道場、剣道の修倫館は共に個人の建設になるものである。しかし、学校では体育館を活用、少年剣道教室も毎日曜日にひらかれたり、中学校では教科に入ってスポーツの一角に日本の伝統を生かしている。

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美つくりの里・旅するアート2016「津山文化センター編」

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美つくりの里 旅するアート 第14回おかやま県民文化祭地域フェスティバル「現代アート in 津山の城」作品展示が、平成28年11月12日(土)~23日(水・祝)津山城跡(鶴山公園)・津山文化センターであり、太田三郎さんの「三鬼と三郎」、下道基行さんの「漂泊之碑」、井手豊さんの「静寂の光」「鶴山動物園」と3名の現代美術作家さんが独自の世界を作り出していて懐かしくもあり、興味深くもあり、面白かったです。

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