片山 潜 記念館(久米南町)

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郷土の偉人・片山潜
 片山潜は1859年(安政6年)久米南町羽出木の庄屋、藪木国平(父)きち(母)の二男として生まれ、幼名を菅太郎といい19歳まで勉学のかたわら家業に精励した。その後片山幾太郎(建部町下神目)の養子となり(徴兵回避のためともいわれる)のち復籍し、さらに片山常吉(久米南町塩之内)の養子となる。この頃、名を片山潜と改める。
 1884年(明治17年)26歳で渡米、働きながら苦学し、グリンネル大学などを卒業し、その間、社会問題、労働運動に関心を持ち社会主義者となった。そして38歳の時、13年ぶりに帰国、明治30年にキングスレー館を開き社会主義、労働運動の啓蒙、普通選挙の実現や反戦平和の運動など多彩な文筆活動、実践運動に専念し日本の社会主義運動に偉大な足跡を残した。
 大正3年9月9日、日本での弾圧下を逃れて渡米し永遠に日本には帰らなかった。
 1922年(大正11年)の暮れにコミンテルの極東民族大会(ロシア)に参加して議長を務めるなど、精力的な活動を続け1933年(昭和8年11月5日13時50分)クレムリン病院で故郷羽出木の秋の空を欧州第一のトロサックスの空よりも美しいと遠く故郷に想いをはせつつ74歳の生涯を閉じた。
(久米南町観光協会)

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15万人の人々                  赤の広場へ向かう潜のひつぎ(1933年11月)

モスクワでの葬儀には15万人の人々が集まり、スターリンら共産党の幹部らがひつぎをかついでクレムリン宮殿の壁に埋葬されました。


郷土出身の革命家・片山潜
 片山潜は安政6年(1859)、久米南条郡羽出木村(久米南町羽出木)で生まれました。25歳の時の渡米で社会問題に関心を持ち、帰国後、労働組合結成の推進など社会運動家として活躍します。
 当時は危険思想とみなされ、弾圧を受けましたが、潜は思想を曲げず大正3年(1914)、4度目の渡米を果たし、のちにロシアの共産党に共鳴、大正10年(1921)ソ連(現在のロシア)に渡り、共産主義政党の国際組織であるコミンテルンの幹部として反戦平和を訴え、世界を舞台に革命家として活躍しました。昭和8年(1933)ソ連で75歳の生涯を終えましたが、モスクワでの葬儀には15万人の人々が集まり、スターリンら共産党の幹部らがひつぎをかついでクレムリン宮殿の壁に埋葬されました。(文:片山潜記念館より抜粋)

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70歳(1929年モスクワ)             片山潜72歳(1932年モスクワ)

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片山 潜の生家                   記念碑

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                片山 潜の記念碑

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片山 潜の生家とまわりの風景

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片山 潜の父母

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第一次渡米の頃(1884年)            イギリス労働党ケア・ハーデー歓迎会(1907年)

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潜の子どもたち(1906年)            田添、幸徳、堺、山川と(1907年)

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東京市電のストライキで入獄(1912年)       潜と家族(1914年)

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モンゴルを視察(1925年)

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コミンテル第6回大会で(1928年)         義弟の義雄さんと病後の潜(1930年モスクワ)

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片山 潜の手紙

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片山 潜の手紙

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片山 潜記念館内の展示風景

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片山 潜記念館内の展示風景

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片山 潜 略年譜
・1859年12.3 現在の岡山県久米郡久米南町字羽出木に生れる(戸籍謄本による。
       新暦換算12.26、『自伝』で は12.7)。父は国平、母はきち、二男で名は薮木菅太郎。
       家は代々庄屋であった。
・1862年(3歳) 父離婚して僧侶となる。引き続き祖父の家で、母の手で育てられる。
・1864年(5歳) この頃から手習や漢文素読の手ほどきをうける。
・1868年(9歳) この頃、母と共に分家する。
・1872年(13歳) 村に小学校ができ入学、百余日通学したが働かねばならないのでやめる。
・1877年(18歳) 秋、至善小学校助教となる。
・1878年(19歳)8. 片山幾太郎の養子として転籍。
       11. 植月小学校の助教に転任。家を離れ、独立生活に入る。
・1879年(20歳) 秋、植月小学校を辞め、安達清風の塾に入り塾生となって勉学する。
・1880年(21歳) 秋、岡山師範学校に入学。
・1881年(22歳)8. 学問を志して、岡山師範学校を退学、東京に出る。
         銀座鍋町の活版所績文社に雇われる。
       11. 印刷所に通いながら、岡塾の熟生となる。
・1883年(24歳) 春、近藤塾の塾僕に転ずるが、間もなく岡塾にもどる。
        晩夏、森鷗外の鷗村学舎(栃木県藤岡)の幹事となり、漢字を講義する。
・1884年(25歳)1. 栃木県油田村に行き、3、4ヵ月間、農村青年に漢字を講義する。
         病気のため2ヵ月入院。夏、退院し、帰京。
       11.26 横浜をたち、第一回目の渡米(~1896.1)
       12.14 サンフランシスコに上陸。住込みの家庭仕事にに雇われる。
         以後、在米中は各地で、家内雑事、皿洗い、コック、農業労働、学僕などで
         生活費や旅費、学費を稼ぐ生活をつづけた。・1885年(26歳) 
         サンラフェール村、サンフランシスコ下町、ポノマと移り住む。
・1886年(27歳) アラメダでコックとしてすごす。この頃から耶蘇教会に出入りする。
・1887年(28歳)1. オークランドのホプキンス・アカデミーに入学。校長の家庭で給仕として働く。
       12. 冬期休暇を期として退学。
・1888年(29歳)2. ローストゲストからメリーヴィルに移り、約3ヵ月牧師宅で働き、
         メリーヴィル大学予科に学ぶ。 
         秋、メリーヴィル大学に入学。学生寮の寮僕となる。
         この頃、社会問題に興味をもつようになる。
・1889年(30歳)5. メリーヴィル大学を去り、パーカー教授を頼ってアイオワに移る。
       9. グリンネル大学(現アイオワ大学)古典科に入学。
・1891年(32歳)9. 大学の最終学年、経済学の一部として社会主義を研究。ラサール伝を読む。
・1892年(33歳)6. グリンネル大学を卒業、B・A(文学士)となる。
       9. 当時、社会問題の講座のあったアンドヴァー神学校へ入学。
         同時にグリンネル大学大学院に籍をおく。主として社会問題を研究する。
・1893年(34歳)6月頃、グリンネル大学大学院に、卒業論文「独逸統一史」を書き、
         M・A(文学修士)となる。
・1894年(35歳)6~9. 学友とイギリスへ旅行。社会問題および労働問題の視察をする。
         この間に社会問題をセンチュリー誌に寄稿した。
         9. エール大学神学部に転ずる。主として社会問題を研究。
・1895年(36歳)6. 「欧米の都市問題」を卒業論文として、エール大学神学部を卒業し、
         B・D(神学士)となる。
           ノースフィールドに行き、ホテルで3ヵ月間帰国の旅費を稼ぐ。
         9. 帰国のため、貨物船でタコマを出帆、太平洋上で漂流、
           78日目に再びタコマに帰着
         12. タコマから帰国の途につく。
・1896年(37歳)1. 横浜につく。
         2.4 16年ぶりに帰郷。薮木菅太郎を薮木潜と改名届出る。
         3.12 片山常吉の養子として転籍。即日分家届出。
         9. 早稲田専門学校の教師となったが、半年で解雇される。
・1897年(38歳)3. 東京・神田三崎町に「キングスレー館」を開設し、社会改良事業を開始。
         4.3 社会問題研究会創設に参加、評議員となる。
           発会式に「将来の労働問題」を講演する。
         7.5 高野房太郎らと共に労働組合期成会を結成、幹事となる。
         10. 社会政策学会に入会。
         11.8 横塚フデ(筆子)と結婚。
         12.1 鉄工組合が結成され、その幹事となる。
         労働新聞社をつくり、労働運動の雑誌『労働世界』を創刊し、その主筆となる。
・1898年(39歳)10.18 幸徳秋水、安部磯雄、村井知至、高木正義、河上清、西川光二郎ら十数名と
          社会主義研究会を結成。
・1899年(40歳)2.28 長女やす(安子)生まれる。
・1900年(41歳)1.28 社会主義研究会を社会主義協会に改組、会長安部磯雄。幹事となる。
        3. 治安警察法公布、撤廃のため闘う。普通選挙期成同盟会に入会。
        11. 普通選挙期成同盟会の幹事となり、同会の選挙法改正案起草委員となる。
・1901年(42歳)5.18 安部磯雄、幸徳秋水、木下尚江、河上清、西川光二郎と6名で、
          日本で最初の社会主義政党である社会民主党を結成。5.20結社禁止。
       5.19 長男幹一生まれる。

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        7.5 社会主義協会の活動を再開。 
・1902年(43歳)1. 『労働世界』を改め、日刊『内外新報』を発刊、約3週間後に廃刊。
       4.3 『労働世界』を雑誌として復刊。
・1903年(44歳)3.3 『労働世界』誌を改題、『社会主義』とする。       
       5.16 妻フデ死去
       12.19 横浜からアメリカに向けて出発(第2回渡米)
・1904年(45歳)1.17 シアトル着。シアトルで日本人社会党結成。ポーランド、サクラメントを経て
          サンフランシスコに行き、同地にも日本人社会党結成(2.3)。
       5.1~5 アメリカ社会党大会(シカゴ)に出席
       8.13~20 第2インタナショナル第6回大会(アムステルダム)に日本社会主義者代表
            として出席。日露戦争の交戦国であるロシアのプレハーノフと壇上で握手。
       9.12 アメリカのセントルイスに帰着。
       10. テキサスのヒューストンに移り、農場を経営する。
・1906年(47歳)1.18 アメリカから横浜に帰着。
       2.28 日本社会党成立。同党評議員に選出される。
       8. テキサスの事業整理のため渡米(第3回)。
・1907年(48歳)1.15 日刊『平民新聞』創刊、その社外援助者となる。
       2.19 アメリカから帰国。
       5.12 原たまと再婚。
       6.2 西川光二郎らとともに「社会主義中央機関紙」として週刊『社会新聞』を発刊。
       8.31 田添鉄二、西川光二郎らと社会主義同志会を発足。
・1908年(49歳)1.1 妻たまとの間に千代生まれる。
・1909年(50歳) 夏頃、東洋経済新報社に入社
・1911年(52歳)12. 翌年1月にかけて東京市電のストライキを指導
・1912年(53歳)1.15 東京市電ストライキへの弾圧で検挙され、
          8ヵ月余にわたって獄中生活を送る(9.27出獄)
・1914年(55歳)7. 東洋経済新報社を退社。
       9.9 横浜港から渡米(第4回)。
       9.28 シアトルを経てサンフランシスコ着。
・1916年(57歳)12. ロサンゼルス、アリゾナに立ち寄り、ニューヨークに着く。
・1917年(58歳)3. ニューヨークで『平民』を出し、「ロシア革命の教訓」を書く。
       11.7 ロシア社会主義大革命。片山、ロシア革命を守る第一線にたつ。
・1919年(60歳)9.1 アメリカ共産党の結成に参加。
・1920年(61歳)8. レーニンの『国家と革命』を読む。後に日本語に翻訳。
・1921年(62歳)3. コミンテルン(共産主義インターナショナル)のアメリカ・セクション代表として
         メキシコに移る。
        11. コミンテルンの活動に参加するため、アメリカ、フランス、ドイツを経て
          ソビエトにむかう。
        12.14 大歓迎をうけてソビエトに入る。
・1922年(63歳)1.21~2.2 極東諸民族大会の名誉議長として大会全体を指導するとともに、
           日本共産党結成促進のために力をつくす。
        5.~7. シベリアにおもむき、日本の干渉軍にたいし反戦活動を展開。
        6.11 コミンテルン執行委員会第2回拡大総会、各国の党の綱領の作成に協力する
           国際委員会を任命。その日本担当として、
           日本共産党綱領草案の作成をすすめる。
        7.15 日本共産党創立。
        11.5~12.5 コミンテルン第4回世界大会に日本代表として参加。
           執行委員会幹部会員に選ばれる。
・1923年(64歳)1.~2. 過労のため、ドイツのバーデン・バーデンの温泉で静養。
        3.29 妻たまと形式上の離婚(片山の妻ということで迫害されるため)。
・1924年(65歳)6.17~7.8 コミンテルン第5回世界大会に出席、執行委員会幹部会員に選出せれ、
           指導的に活動する。
           日本問題委員会で日本共産党の解党決議を取消し、
           党を再組織することを決定。
・1925年(66歳)1.~3. 上海に渡り、中国に約1ヵ月滞在。
         4. 北京からモンゴルのウラン・バートルを訪ね、モンゴル各地を視察。
・1926年(67歳)5.~8. 病気で数ヵ月静養。クリミア、コーカサスに転地し、8月モスクワに帰る。
・1927年(68歳)2.10~15 ブリュッセルでひらかれた反帝国主義民族独立支持同盟(反帝同盟)の
           結成会議に出席。
        6.~7. コミンテルン日本問題特別委員会の一員として27年テーゼ
           (「日本問題にかんする決議」)の作成に参加。
        10.4 アムステルダムでひらかれた反帝同盟第1回世界大会に出席。
・1928年(69歳)7.17~9.1 コミンテルン第6回世界大会で引き続き執行委員会幹部会員に選ばれる。
・1929年(70歳)8. フランクフルト・アム・マインでひらかれた反帝同盟第2回世界大会に出席。
・1930年(71歳)12. 過労のため、発病。
・1931年(72歳)1.~6. クレムリン病院に入院、重態。6月に退院してクリミアに転地療養。
       9. 健康回復してモスクワに帰る。日本帝国主義の満州占領に反対して闘う。
・1932年(73歳)3.~5.32年テーゼ「日本の情勢と日本共産党の任務にかんするテーぜ」の作成に参加。
       8.27~29アムステルダムでひらかれた世界反戦大会をロマン・ロランらとともに
         組織。侵略戦争に反対してたたかっている日本の勤労人民にたいする支持と、
         中国革命にたいする援助を訴え、大会参加者に深い感銘をあたえる。
       9. パリ反戦大会で演説。
・1933年(74歳)11.5 モスクワ・クレムリン病院で74年の革命的生涯を閉じる。
      『科学と思想』誌51号掲載の略年譜に若干の補正。

(文:片山潜記念館より)(撮影:2017年3月30日、4月14日、4月22日)