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宇田川興斎旧宅跡(北町) 

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宇田川興斎旧宅跡 未指定(史跡) 北町8番地の7 
 津山市北町の城北橋の西詰の一角に津山市教育委員会が建てた解説板がある。ここが箕作家と並ぶ津山洋学のもうひとつの柱、洋学者宇田川家の四代目宇田川興斎の屋敷であったところである。この場所は、土地所有者本島大道より津山市が寄贈を受け、平成9年10月に整備された。興斎は文久3年(1863)から明治5年(1872)までのあしかけ11年間津山に住んでいた。この北町の屋敷の後、林田町に家を借りて住んでいるが、その場所は不明である。当時は明治維新前後の激動の時代であり、津山にいる間、興斎は東奔西走し、公私ともに多忙な日々を過ごした。

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 興斎は、本草学者として有名な飯沼慾斎の三男として文政4年(1821)8月15日に生まれた。幼名を行三または興蔵といい、名を瀛(みつる)、字を約舟(やくしゅう)、仙嶼(せんしょ)と号した。天保14年(1843)、宇田川榕菴に実子がなかったため、宇田川家の養子となる。その後の興斎は箕作阮甫と共にペリーの国書を翻訳し、また、幕府から蕃書調所への出仕の要請を要請されるなど、一流の洋学者として江戸で活躍した。しかし、幕府からの出仕の要請を「津山藩ではすでに箕作秋坪が外国に行っており、藩に医師がいなくなる」といって断ったことがある。著書に『英吉利文典』・『萬宝新書』・『地震預防説』などがある。
 宇田川家は江戸詰の津山藩医で、先祖代々江戸に住んでいた。しかし、文久2年(1962)に参勤交代の制度が緩められ、藩主が国元にいる期間が長くなり、それにともない津山移住を藩から命じられ、興斎は津山に引っ越してきた。

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 興斎は、津山に来る前年に故あって妻と別れており、津山で新しい妻「おかじ」を娶り、その間に一子「轍四郎」をもうけている。しかし、津山にいる間に二人とも亡くなってしまった。津山にいた間の興斎は、長州征伐に従軍したり、一時江戸詰めを命じられたり、京都・大阪・大垣への公務出張など席を温める暇もなかったということである。また、明治3年(1870)には同僚の津山藩医久原洪哉とともに藩主夫人の儀姫の乳癌の治療に心を砕いている。
 その後、明治5年前藩主松平慶倫の夫人の東京復帰にともない、再び東京に移った。明治20年5月3日67歳で東京で亡くなる。

 東京の多磨霊園にあった宇田川三代の墓所は宇田川三代顕彰実行委員会の手で津山市西寺町の泰安時に平成元年(1989)に移転されたが、興斎の墓は東京の雑司ヶ谷霊園にある。
 なお、興斎は津山移住後菩提寺を江戸浅草誓願寺から津山西寺町の泰安寺に変更しており、現在泰安寺の境内には宇田川三代の墓のほか、津山で亡くなった興斎の妻「おかじ」と一子「轍四郎」の墓が残されている。
参考文献 『津山洋学資料館 友の会だより』第2号、津山洋学資料館友の会、1983年
(文:津山市教育委員会発行『津山の文化財より』)(2017年8月13日撮影)

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津山で亡くなった興斎の妻「おかじ」と一子「轍四郎」の墓碑と墓(2009年9月13日撮影)

「 宇田川興斎の妻子の墓(左端)
 興斎は、文久三年(一八六三)国元へ転居を命ぜられ、津山で藩士阿部多亀之丞の伯母お梶を娶り一子轍四郎をもうけたが、虚弱の為生後七カ月にして死去した 続いてお梶も病死し、当寺内に埋葬された この度三代の墓所をここに定めるに当たり興斎妻子の墓も併せ移し、共に永くその霊を弔うものである」墓碑より


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北町と松並木
 津山城の北側に形成された武士の町で、津山城の北麓にあたるため御北と称したと言われている。北部の山北村との境界には、東西に一直線に続く松並木が設けられていた。
 松並木の北には田んぼが広がり、その中を、一本の道が鍵型になって北屋敷(後の御対面所、現衆楽園)に向かっていた。(文:看板より)