津山城ひなまつり2018
2018年3月7日津山城(鶴山公園)三の丸にある鶴山館にで津山城ひなまつり(2018年3月3日~3月11日)が開催されており拝見してきました。明治初期の雛飾りや可愛い市松人形も飾られていました。また、苅田家のお雛様は明治時代の初期~40年代のお雛様で見ごたえあります。その他、沢山の格式高いそれぞれのお雛さま達が今年も楽しませてくれました。今年はB'zの看板が飾られていて(ひな祭り期間中は勿論当分の間)何だか得した気分になりました。(2016年の雛祭り)
2018年3月7日津山城(鶴山公園)三の丸にある鶴山館にで津山城ひなまつり(2018年3月3日~3月11日)が開催されており拝見してきました。明治初期の雛飾りや可愛い市松人形も飾られていました。また、苅田家のお雛様は明治時代の初期~40年代のお雛様で見ごたえあります。その他、沢山の格式高いそれぞれのお雛さま達が今年も楽しませてくれました。今年はB'zの看板が飾られていて(ひな祭り期間中は勿論当分の間)何だか得した気分になりました。(2016年の雛祭り)
備中櫓は天守台の南東、本丸南面に突出した石垣上に立地する2階建ての櫓です。
高さ約13メートル、幅約24メートル、奥行き約8メートルで、延べ面積は約288平方メートルです。
60を数える津山城の櫓の中でも最大級の規模を誇り、その立地などから考えて、天守に次いで重要な櫓であり、象徴性の高い建物であるといえます。
構造
備中櫓は、木造一部2階建てで屋根は本瓦葺きの入母屋造り、外壁は軒廻りも含めて白漆喰塗りです。通常、櫓の内部は板敷きあるいは土間ですが、この備中櫓の内部は全室畳敷きという特徴を持っています。
これは津山藩の学問所(文学所)として1870年(明治3年)に着工されました。場所は京町門の内側にそれまでにあった文武けいこ場の東側(現在の津山電報電話局のところ)で、翌1871年に完成され、従来のけいこ場とあわせて「修道館」と名づけられました。この時期は同年7月に行われた廃藩置県の直前であり、明治維新のあととはいってもまだ藩内の教育については藩が統轄しているときでした。
しかしその後、明治政府は廃藩置県を行うことによって全国に統一した行政が行える体制ができ、文部省を設けたり、1872年には学制を制定(学区制、就学奨励)したりして、近代教育制度を発展させていきました。修道館はこのような事情から完成して間もなく廃藩置県にもとづいて廃止され、のちの"鶴山館"にあたる建物は変遷する教育制度などと深くかかわりながら利用されてきました。それはだいたい次のとおりです。
津山城
津山城は1604年(慶長9年)に着手され、13年後の1616年(元和2年)に完成しました。
この場所は鶴山を中心とする一帯で、藩主にとっては城下町をつくり、常備軍をひざもとにおいて不意の戦争に備え、農民に対して武士の力強さを誇示できると同時に、藩内の統治にもっとも便利な場所として選定されたものと考えられます。
形式は丘陵とそのふもとをとりいれた平山城で、縄張(郭.堀.城壁.虎口等の配置規模を決めること)は巧妙で、また施設も堅固にできており、本丸を守るためにとてもよく考えてつくられています。
山頂に本丸を定め、その西部か堅固な石垣で区切って、ここを天守曲輪とし、中央に五層の天守閣が設けられています。その東側と本丸を東北に向けて強く張り出させたところには特に髙い石垣を築いて櫓を点在させています。また、北側の急斜面はこれを利用して坊塁を築き、東側のがけは急な勾配で宮川に面しているので、そのまま防備に利用されています。
全国に知られた富豪「蔵合家」
二階町をはじめ津山の城下町の成り立ちに深いかかわりをもったと思われる「蔵合家」について。
西側の家並の中で、現在の日専連ビルから北の中央病院の寮(旧電々局合)まで、二階町の表通りに面して日専連ビル、美作印刷、津山郵便局、津山中央病院寮が並んでいるが、江戸時代には蔵合家がここに居を構えていた。
「津山惣町改町」の二階町の項に、南から「西へ通る横丁あり。蔵合孫左衛門=表口23間、奥行17間、京町塩谷新兵衛持ち屋=表口4間半、奥行17間、白銀屋久兵衛=表口7間、奥行17間。西へ通る横丁あり」と記される。南の「西へ通る横丁あり」は日専連ビルの南側の通りで「馬方町」ともいわれる。次の「横町あり」は中央病院横で「八百屋町」と呼ばれていた通り。ともに舗装の下に元禄期の小路がそのまま息づく。
現在も家数は少ないが、元禄10年はわずかに3軒である。大半を「蔵合孫左衛門」の家で占め、表口は23間(約41㍍)である。
皆様、明けましておめでとうございます。昨年中はいろいろとお世話になり、心よりお礼申し上げます。今年もどうぞよろしくお願い致します。
11月18日から11月23日まで、津山城鶴山公園にて、「津山城もみじまつり」が開催されております。期間中は鶴山公園内にある約300本のもみじがライトアップ(PM17:00~21:00)され、遠くからも石垣ともみじのコントラストがとても素敵です。
また、18・19日のステージイベント、ご当地グルメフェスティバル&つやま地域産品まつり、美作国大茶華会などイベント盛りだくさんの「津山城もみじまつり」でした。(撮影:2017年11月18日)
浮田佐平は、慶応3年(1867)、父卯佐吉と母柳の間に生れました。
父卯佐吉は、幕末に筑後屋という屋号で米仲買頭をしていました。明治に入って貨幣改方手代を命じられ、明治21年(1898)には、津山銀行の支配人となりました。
母柳は明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられました。明治13年、同所が廃止されることになり、夫卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を建設し、後進を養成しました。
浮田佐平は、両親から受け継いだ製糸業をはじめとして、多彩な事業を展開していました。
大正十一年(1922)、五十五歳のとき、陶磁器製造を始めます。佐平は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていました。海外、そして数百年先でも通用する美作特産佐平焼が完成すれば、津山の工業の発展につながると考えていたのです。
それは、「津山の生んだ事業界の偉傑」と語りつがれている浮田佐平の、壮大な戦いのはじまりでた。
2017年10月22日(日) ~29日(日) 「第55回 美風盆栽展」が津山市山下の津山城(鶴山公園)内の鶴山館で開催されています。2017年10月24日の台風一過の日に拝見してきました。会場内のとても立派な盆栽に驚き、小さな枝に大きく実った柿を見て随分丹精を込めて育てられたんだなぁ~と感動しました。また、鶴山館の外では即売などがあり、鉢植えがずらりと並んでいました。茶道裏千家の淡交会津山支部の抹茶のお接待もありました。ちなみにオープンの日10月22日は、接近してくる台風の為「津山まつり」の徳守神社と高野神社のお祭りのだんじりやお神輿の出動が取りやめになったくらい近年にはない雨や風の強い日となりました。(2017年10月24日撮影)
司馬遼太郎の「街道をゆく」の第7巻は、古代の鉄生産をたずねて山陰路を歩いた記事をのせている。その帰途に四十曲峠を越えて作州に入り、苫田郡加茂町の黒木あたりのタタラ跡を見て回った。そこから岡山へ出る道、五十三号線の佐良山地区内のドライブ・インに立ち寄った。同行の鄭詔文さんがいつものくせで電話帳を借りて来てめくっているうち、津山市内に「百済姓」が四軒もあるのを発見、すぐ電話連絡をしたら、百済康氏の家だった。寄って欲しいと言われ、吹屋町に引き返して系図をみせてもらった。「いかにも風趣あり」鋳物伝来の暗示をしているようで、みごとな感じをうけた。と司馬遼太郎は書いている。このみごとな感じとは、渡来者の家系を誇りとしていることを指すと思う。いうまでもないが、新しい文化を日本にもたらしたのは多くの渡来者であった。