![医療の発展に貢献した久原家(二階町)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/04/kuhara8-thumb-120x120-90965.jpg)
医療の発展に貢献した久原家(二階町)
![皆戦場〔合戦場〕(草加部)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/03/kaisen1-thumb-120x120-91010.jpg)
皆戦場〔合戦場〕(草加部)
![津山の今昔を辿ってみました。(1)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/01/miyagawa-thumb-120x120-91196.jpg)
津山の今昔を辿ってみました。(1)
![行啓道路(津山市山下)](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2015/07/800%E8%A1%8C%E5%95%93%E9%81%93%E8%B7%AF-thumb-120x120-91204.jpg)
行啓道路(津山市山下)
![アルネが出来る前の吹屋町界隈の写真](https://www.e-tsuyama.com/report/assets_c/2017/03/800px3177-thumb-120x120-162131.jpg)
これは津山藩の学問所(文学所)として1870年(明治3年)に着工されました。場所は京町門の内側にそれまでにあった文武けいこ場の東側(現在の津山電報電話局のところ)で、翌1871年に完成され、従来のけいこ場とあわせて「修道館」と名づけられました。この時期は同年7月に行われた廃藩置県の直前であり、明治維新のあととはいってもまだ藩内の教育については藩が統轄しているときでした。
しかしその後、明治政府は廃藩置県を行うことによって全国に統一した行政が行える体制ができ、文部省を設けたり、1872年には学制を制定(学区制、就学奨励)したりして、近代教育制度を発展させていきました。修道館はこのような事情から完成して間もなく廃藩置県にもとづいて廃止され、のちの"鶴山館"にあたる建物は変遷する教育制度などと深くかかわりながら利用されてきました。それはだいたい次のとおりです。
1872年(明治5年)北条県立津山中学校を開設、翌年廃校。1874年5月共立小学校鶴山学校開設、1877年(明治10年)廃校。同時に成器学校支校、また翌年9月から1884年(明治17年)12月までは西北条・東南条郡役所1886年(明治19年)から1888年(明治21年)までは鶴山小学校、1891年(明治24年)とその翌年ごろは幼稚園として使用。1892年私立津山普通学校を開設。1895年(明治28年)8月廃校。同時に岡山県立津山尋常中学校仮校舎。1901年(明治34年)から津山町立高等小学校仮校舎。1903年(明治36年)岡山県立津山高等女学校仮校舎として使用されました。
そして同校が校舎を新築してそれに移ったのを機会に、1904年にこれを津山城三の丸跡の現在位置に移築し、其後はいろいろな集会や催場に利用されてきました。
"鶴山館"の呼び名は移築したときにつけられたものです。
現在の建物(床面積490平方メートル)は津山市が1974年度中に2500万円かけて松平藩文書の中にある苅記のけいこ場の図面を参考にして修復したものです。(文:鶴山館内の説明板より)
鶴山館は年間を通じて催事が数多く開催されています。
(2016年3月・12月、2017年7月13日・10月24日撮影)