因幡往来の道しるべ(押入)
下押入の県道兼田上横野線の山西境のところに、元禄年間(1688~1704)に、つくられた花崗岩の道標が立っています。(字建石)
この道標は、東はいなば道、西は加茂道と書いてあります。東はいなば道はわかりますが、西加茂道というのは、」ちょっとふしぎな気持ちがします。西は、津山城下の方角だからです。
よくしらべてみると、道標の西の方、鹿の子橋の手前で、北に行く古い道があります。
下押入の県道兼田上横野線の山西境のところに、元禄年間(1688~1704)に、つくられた花崗岩の道標が立っています。(字建石)
この道標は、東はいなば道、西は加茂道と書いてあります。東はいなば道はわかりますが、西加茂道というのは、」ちょっとふしぎな気持ちがします。西は、津山城下の方角だからです。
よくしらべてみると、道標の西の方、鹿の子橋の手前で、北に行く古い道があります。
しづな山をこす因幡往来(2014年12月9日取材)
古い時代の管道(国道)である出雲街道は、日本海がわの出雲地方と国の中心だった大和地方をむすぶ重要な交通路でした。岡山県内には、七つの宿場がつくられており、大名行列の通った道でもありました。
前回の特集から、ちょっとたどってみました。(2011年9月8日~2015年1月20日最終)
実際に正確な位置なのか定かではございませんが、ここかな?と勝手に行ってまいりました。
昔の写真提供は塩山さんです。位置情報の提供をいただいた皆様ありがとうございました。
2015年1月1日の白加美神社の雪景色ですが、辺り一面シーンと静まり返っていましたよ。
とにかく寒い!年明けとなりました。氏神様にお参りして、昨年無事に過ごせたことを感謝し御礼申し上げてきました。さてさて今年はどんな年になるでしょうか?地方の景気が上向いてみんなが健やかにすごせますようにとお祈りしてきました。
2015年1月2日正午過ぎに雪が解けてきたのでやってきました。入り口でお聞きしたら雪を冠った津山城(鶴山公園)を撮りに朝から大勢のカメラマンが来られたそうです。入り口を過ぎ、ふと上を見るとこの石垣はスマートなんだと気付き写してみました。冬の鶴山公園も素敵ですね。
2015年1月2日、明けましておめでとうございます。昨年はこの「津山瓦版」というローカルなサイトを見て下さった大勢の皆様に厚く御礼申し上げます。皆様にとって今年が幸多からんことをお祈りし、本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
さて、元旦にかけて雪が降ってとても寒い年明けとなりましたが、それでも昼間は道路の雪も溶けたので津山を代表する観光地「衆楽園」まで行って来ました。
2014年11月6日取材 (前回の取材)
弥生時代以降、津山は農業を基盤として発達してきました。江 戸時代に津山城が置かれてからも、城下町は周辺の農業集落を背景として成り立っていました。明治時代になってからも、近代産業の発達はたち遅れたため、交 通の要衝(ようしょう)という位置をいかし、周辺の農業収入を背景とした商業を特に発達させてきました。
2014年11月21日の津山城(鶴山公園)の様子です。
衆楽園は、江戸時代初期に津山藩主・森家によって築造された回遊式の庭園です。元禄11年(1698)に松平家が 藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の隠居所の庭園として使われ、明治3年(1870)に 「衆楽園」として命名されました。
平成14年6月には国の名勝に指定されました。大名庭園としての国の指定は、岡山市の後楽園に次いで岡山県下で2例目です。
今は一般開放(入園無料)され、四季折々の美しさを見せ、市民や観光客に親しまれています。(文:津山市HPより抜粋)2014年11月16日取材
名木百選 「長法寺のイチョウ イチョウ(イチョウカ)」 津山市井口 推定樹齢200年
明治の詩人薄田泣菫がその名著「二十五弦」に出した長詩の一節のモデルといわれているイチョウである。2014年11月20日取材
(2009年の取材)(2010年の取材)(2012年の取材)(2014年の取材)