新茅町
「新茅町は鉄砲町の西にありて1区域をなせり、東北は堤をもって鉄砲町、西寺町に界し西南は小田中村に限る、初め柳土手と称す。森氏流離の民をしてこの地に住せしむ。明治5年壬申戸籍編成にあたり改めて新茅町と称す。」(矢吹正則著『津山誌』)
町の東端に大正の頃まで遠方よりお参りする人も多かったといわれている普門品観世音菩薩の石仏が在ります。その横に建立の由来は不明ですが、正面に南無阿弥陀仏、側面に五月吉氏と刻まれた墓があり、周囲には五輪塔が並んでいます。
「新茅町は鉄砲町の西にありて1区域をなせり、東北は堤をもって鉄砲町、西寺町に界し西南は小田中村に限る、初め柳土手と称す。森氏流離の民をしてこの地に住せしむ。明治5年壬申戸籍編成にあたり改めて新茅町と称す。」(矢吹正則著『津山誌』)
町の東端に大正の頃まで遠方よりお参りする人も多かったといわれている普門品観世音菩薩の石仏が在ります。その横に建立の由来は不明ですが、正面に南無阿弥陀仏、側面に五月吉氏と刻まれた墓があり、周囲には五輪塔が並んでいます。
城西地域の中で北西の位置にあり、市街地から少し外れた丘陵地の見晴らしの良い高台にあります。戸数は100戸少々で東西に長く、面積はかなりあるものの家は点在し坂道が多いです。
昔は30戸余りの野菜栽培の専業農家ばかりの小さな町内で、畑地帯で市民の台所でしたが、町の中心部に近いことから新興住宅地として戸数もどんどん増え、今は農家は少なくなりました。笠松地内に西陵団地ができ、やがて独立町内になりました。
笠松の名前の由来は江戸時代この地帯は大きな松が茂り笠のようであったということでです。その松は今は全く無い畑地帯になっています。山を切り開いて畑にしたので山畑地帯とも呼ばれています。
昭和54年(1979)5月1日に津山市小田中笠松地内に誕生しました。そして昭和59年(1984)1月に町内会として独立しました。
「企業は人なり、額に汗して社会に奉仕する人々のより幸せを求めて、この西陵の地に新しいまちづくりが完成いたしました。」西陵花壇の三本のくすのきの下に、この言葉が刻まれた石碑があります。
昭和48年春、岡山県立津山商業高等学校OB中心の、津山市内企業26社で協同組合西陵団地設立、組合企業従業員の持ち家制度として83区画の建設事業が始まりました。
2019年が始まりました。津山市小田中にある白加美神社の初詣の儀式が今年も厳かに執り行われています。ピンと張りつめた雰囲気の中での初詣の風景です。
2018年10月21日、津山市小田中に鎮座する白加美神社の秋祭りが執り行われました。
地元なので毎年伺っていますが、今年は特に若人がキビキビと舞う獅子舞がとても素晴らしかったです。それに、小学生の笛の音色も可愛かったです。小田中も高齢化率も高くなってきていますので担ぎ手も少なくなっていますが、白加美神社の秋祭りは延々と続いてほしいものです。
「疎開日記」碑 谷崎潤一郎
「池に落つる雨の音侘し。因に云ふ。この御殿は明治初年にお城より此処に移し建てしものの由にて、愛山宕々庵と号す。床の間に松平康倫公の書『愛山』の軸をかけ、その上に鶴堂公書『宕々庵』の額あり。6畳の間に慎由公夫人静儀の和歌『山は今朝霞のきぬにつつまれて千代の色そふ松の対立』の額あり。」
文豪、谷崎は終戦間際の昭和20年津山に疎開。宕々庵で「細雪」を書き継いだ。八子・愛山
2018年8月18日の小田中散歩で出逢ったお野菜たちです。
今年の夏は異様に暑くて8月に入ってからも36度は当たり前でしたが、お盆前後から朝晩が急に涼しくなりました。というか涼しいを通り越して寒く感じられるようになりました。朝が涼しくなったので、急な坂道も歩くとほどよい加減です。畑には季節のお野菜がすくすく育っていますが、暑さにピーマンは落下して赤くなっていました。
徳守神社のこの石灯籠は森長継が贈ったと書かれておりますが、詳しい事は解りません。ただ、類似の石燈籠がある中山神社の石灯籠には下記のように書かれている。
新魚町のことを調べている時に、小田中の中本屋の奥様から「これが遠い先祖の家です。」と見せてくださった絵です。「中藤家はおそらく江戸末期に南の方から津山へ来ているのではないかと思う。津山では、雑貨で大儲けをして酒屋を始めたと聞いていますが、その後栄枯衰退があったようです。今では何も資料が残っていないので詳しい事は解りません。」とのことでした。
2018年4月4日の小田中から見た朝日です。お正月の頃と比べると随分出る所が違っています。(2014年の初日の出)早朝に散歩するといろんな景色に出会います。4月というのに随分暖かな気候となり、今年は桜の開花も随分早くなって満開を過ぎて散り始めてしまいました。