梅の里公園「梅まつり」
津山市神代 梅の里公園で、毎年恒例の「梅まつり」が2018年3月1日(木) 〜 2018年3月31日(土)執り行われています。約5ヘクタールの園内に紅白あわせて14品種の梅の木が植えられています。梅の木が満開になると梅の花の香でいっぱいです。また、イベントが17日・18日(日)にあり、バンド演奏、演芸、梅の種飛ばし大会、べっぴん一座、もち投げなどで賑わいました。
津山市神代 梅の里公園で、毎年恒例の「梅まつり」が2018年3月1日(木) 〜 2018年3月31日(土)執り行われています。約5ヘクタールの園内に紅白あわせて14品種の梅の木が植えられています。梅の木が満開になると梅の花の香でいっぱいです。また、イベントが17日・18日(日)にあり、バンド演奏、演芸、梅の種飛ばし大会、べっぴん一座、もち投げなどで賑わいました。
2018年3月14日城東地区の寺下通りを散歩していたら、千光寺の駐車場の枝垂桜の蕾が大きく膨らんでいました。もうすぐ咲くのが楽しみですね。また、千光寺のツバキの花が咲いています。とても綺麗です。お花や香りを楽しみながらゆっくりと散歩してはいかがでしょう。
堂内には、弘法大師と袖捥観音を祀っています。堂の表には3っの表札がかけられています。
【勝南霊場第18番観世音菩薩(白札)】
高野山支部勝南祈四国18番霊場(木札)
勝田西国 第12番(木札)
この3種で、霊場巡りは、明治20年(1887年)頃から盛んになりました。
昭和10年(1935年)頃でも、先達を中心として白衣姿の巡礼が札所を巡っていたのが見られ、札所近くの人が接待や仮宿をしていました。この巡礼めぐりの創設は、718年頃と言われています。
【由来】文久元年(1861年)、辛酉の年のこと、殿さまは松平慶倫公で、前年には徳川幕府の大老井伊直弼が水戸浪士に討たれるという大事件【桜田門外の変】がありました。
「絲櫻水にも地にも枝を垂れ」(衆楽園)
山口 誓子(やまぐち せいし)明治34年京都市生。昭和23年、俳誌「天狼」を創刊、主宰。
昭和54年、西東三鬼の「花冷え碑」対面に訪れた折、衆楽園を吟行しこの句を残した。平成4年文化功労者顕彰。「激浪」「遠星」「七曜」などの句集がある。(文:津山文学碑めぐり)(2016年11月12日撮影)
2018年3月4日はとても天気も良くて清々しい小春日和。この陽気につられて城西雛めぐり(3月1日~4月3日)に出かけてきました。民芸館前では、おじ様の「はよ~寄っていきんちゃい!」の大きな声に導かれ作州民芸館に入ると、今度は若い学生さんがお出迎えしてくれました。また、入り口には椿の花やフキのとうが飾られていて昨年とはまた違った工夫がみられてよかったです。館内を拝見後、東高校生が作ったクッキーとコーヒーで幸せな気分になりました。その後、作州絣工芸館の可愛いお雛様を拝見してきました。
戸島神社 旧村社
由緒沿革 正徳年中に村内に疫病が発生のため、大和三輪の社に参詣して、悪疫退散を祈願し、御分霊を奉還して、村内の大神山に勧請した。寛文六年国主森長継公が崇敬し、村内の有本山に社地を移し、社殿を改築した。貞享三年国主森長武公が、村内沢昌蒲山に社殿を建立した。元禄六年森長成公が、現在の国司に社地を替えた。明治六年村社に列格した。大正六年十一月十三日神鐉幣帛料供進神社に指定さられた。主祭神 大己貴命 伊弉諾尊 / 主要建物 本殿 幣殿 拝殿 神門 社務所 膳舎 神輿庫 / 摂末社 御先社 天神社 稲荷社 荒神社 若神(文:『苫田郡誌』)(2017年8月4日撮影)
2018年2月16日に津山市役所から帰りに衆楽園に立ち寄ってみました。比較的暖かめの津山市でしたが、衆楽園では松の剪定や屋根のお掃除や庭のお手入れ等々春に向けて準備中でした。中に入ると梅の花は蕾で、咲くのはもう少し先になりそうです。池の中ではサギや水どりがせわしく動いていました。また、この時期は水が澄んでいて底がみえていました。昔は白鳥さんがいて私たちを楽しませてくれたなぁ~と思いながらサギさんを眺めてきました。
2018年2月4日に柵原鉱山で「坑道農業見学会」があると知って参加して来ました。この日は海外の団体様と一緒に約1時間程坑道内を見学させていただきました。子ども達も参加されていましたが、みんな興味津々で、色々と質問をされていました。
「坑道農業」とは、柵原鉱山の坑道を利用して農業をしておるんじゃ。坑道の中は1年を通じて温度・湿度が変わらず真っ暗な状態。この環境に適した作物をいろいろ考えて柵原の特産品にしようと始めたのが坑道農業なんじゃよ!(文:案内パンフレットより)
このムクノキは樹齢約1000年、幹の太さは目通り周囲9.4m、樹高25m、枝張りは南北30mあって県下最大のムクノキです。ムクノキは関東以西の本州、四国、九州に分布し、山地にも生えますが、しばしば人家付近や道路わきに植えられます。5月の若葉が伸びる頃、淡緑色の小さな花を付け、秋には直径12mmほどの黒い実を付け、この実は甘くて食べられます。ムクノキは家具等に使われる他、葉は細工物を磨くのに使われます。 環境省・岡山県(文:立て看板より)(撮影2017年11月19日)
津山城(鶴山公園)に松尾芭蕉の句碑がある。津山と松尾芭蕉の縁を調べてみました。
全国に知られた富豪で俳人でもあった蔵合の五代目孫左衛門直良は、元禄(1688-)から享保(1716-1734)年間頃、全盛を誇った蔵合家当主。西鶴が『日本永代蔵』にえがいたのも直良の時代と思われるが、芭蕉とも交友を結び俳人でもあった富豪の面影をしのばす。俳号は「推柳」という。句集『夢三年』(寛政12年、岡山の佐々木松雨が編集)の中に、芭蕉の友人・山口素堂の一文をのせている。その中に「津山の住、推柳子のもとへ赤木氏より、わが友芭蕉の翁が絵かきて自ら賛せるを送らせー」とあり、芭蕉と蔵合直良推柳の交友を窺わせる。芭蕉が送った自画賛については享保元年(1716)に、やはり芭蕉門の俳人・月空庵露川が門人の燕説を供に津山を訪れた時の紀行『西国曲』に次のように記されているという。紀行には蔵合の繁栄ぶりを示す記事もあり、西鶴の『日本永代蔵』をさらに裏付ける。(2015年4月21日撮影)