ロウバイの花(小田中)
小田中安国寺近くの道沿いにあります。ここのロウバイは背が高く、隣の竹ヤブと高さを競っているように見えます。ここのロウバイも中が赤い色をしています。これはきっとトウロウバイ(唐蝋梅)だと思います。2014年1月27日撮影
小田中安国寺近くの道沿いにあります。ここのロウバイは背が高く、隣の竹ヤブと高さを競っているように見えます。ここのロウバイも中が赤い色をしています。これはきっとトウロウバイ(唐蝋梅)だと思います。2014年1月27日撮影
平成26年1月11日(日)津山総合体育館 (↑上記写真提供:津山市秘書広報室)
津山市体育協会津山武道学園は、青少年の健全育成に資するとともに、スポーツ・武道
愛好者が心ゆくまで錬成に打ち込み、一般観客を集めての各種の武道大会が円滑に開催できる総合武道館の建設推進を重点目標に掲げており、その啓発事業として、市民の武道への関心と理解を深め、より一層の武道の振興の図ることを目的として、毎年開催している。
作陽誌には、 「當寺清泰院は、上田邑の長継山千年寺の艮に在り、江戸時代の住職快長は、岩竇の中に聖牌を視つけました。牌面には、文治三年(1187)七月七日の文字が刻まれていました。
昔、赤松入道世貞は、兵を神楽尾城に據りました。山名時氏を撃ち抜き、安養寺で武運の祈祷と亡者の菩提を弔いました。
岩谷山 妙福寺(日蓮宗)沿革 (2012年5月13日取材)
日蓮宗妙福寺の開基は、文明元年(1469年室町中期)日了聖人によるものであります。当初は坪井上福本の「寺山」にあったが、天正12年(1584年桃山中期)花房職秀により、現在の地に移されました。
妙福寺は、岩屋城と関係は深く、天正10年(1582年)には、本能寺の変があり、続いて高松城の落城、この時の岩屋城主は中村頼宗でありました。頼宗は元来、毛利方であり、美作には毛利恩顧の者は多く、死をもって忠誠を表すことを決意していました。
下田邑の泉水寺で1年の無病息災や家内安全などを祈る火渡り行が行われました。
私もおっかなびっくり!初詣の参拝者と共に火渡り行をしてきました。(2014.1.1)
火渡りは古くから修験道に伝わる儀式だそうで、とても厳かな儀式でした。読経や弓を使った清めの儀式の後、護摩壇に点火し、燃えた炭火の上を住職らが先陣を切って渡り、その後を檀家さんや参拝者が続きました。
小田中笠松のカウントダウン花火(年忘れ花火大会)
https://www.e-tsuyama.com/report/2013/01/post-402.html
https://www.e-tsuyama.com/report/2012/01/post-107.html
『服部定山 遺作展』(2012年12月18日取材)
〇会期:12月15日(日)~1月19日(日)入館料:無料(2F常設展は500円)
年末年始は12/28(土)~1/4(土)まで休館となります。
本年4月に亡くなられた成道寺前住職・服部定山氏の「書」、「陶芸」約200点を一堂に展示いたします。服部定山氏は若い頃から趣味として陶芸や書、篆刻などに親しみ、特に陶芸は、津山市老人会陶芸教室の講師も勤めました。
美作国ミステリースポットとして紹介されている中の【殺生石の由来】 (岡山県真庭市勝山にある曹洞宗の寺院『化生寺(かせいじ)』)
九千年を永らえた白面金毛九尾の古狐が唐より帰朝する吉備真備の船でわが国に密航する。約四百年間身を隠したのち、鳥羽法皇の寵妃(ちょうき)『玉藻の前』となり、ご寵愛を一身に集めたその頃、時の帝近衛天皇は、重い病に伏され、ご生母美福門院(びふくもんいん)は、天文博士安部康成に大祈祷を命ぜられると正体を現した妖狐は那須野原へと飛び去った。2013年12月8日(日)
泣清水の碑(美作国theミステリーの中で紹介されているミステリースポット)
この南に昔水田があり、東西に流れ落ちる水音が哀調をおびていたので、この地を泣清水と呼んだ。伝説に、父の仇討を首尾よく果たした清水鶴と亀の孝女姉妹が住んでいた哀愁の地。更に勝間田の「お花」が津山城下に赴く時、最後の別れを泣いて惜しんだ悲哀の地でもある。(2013年12月3日碑より)
没後二年 美作の四季を描くと題して「河野 磐(こうのいわお)スケッチ展」が勝央美術文学館で開催されている。213年12月8日(日)まで。河野 磐さんの描いた風景は暖かくて心が和むものでした。また、存在感のある映画のポスターや演劇のポスターなどが並んでいます。是非、足を運んでみてください。また、河野美術館へもお出で下さい。2013年12月3日取材(取材協力:勝央美術文学館)