知恵を願う文殊菩薩(山形)
知恵を願う文殊菩薩 筆などを供え素朴さ残す
勝北町山形の字寺尾、八幡神社の上り道のかたわらに、石造りの「文殊菩薩」と彫った文字塔が、ひっそりと立っている。
石塔の高さ七〇cm、表面の下方に蓮華を彫り、その上の中央に「文殊菩薩」右方に「文政七年」「世話人忠蔵」左方に「申八月日」「其外連中」と刻銘されている。文政七年といえば、今から一六七年前、世話人忠蔵を中心として、文殊信仰に篤いこの付近の人びとによって、建立されたものであろう。
知恵を願う文殊菩薩 筆などを供え素朴さ残す
勝北町山形の字寺尾、八幡神社の上り道のかたわらに、石造りの「文殊菩薩」と彫った文字塔が、ひっそりと立っている。
石塔の高さ七〇cm、表面の下方に蓮華を彫り、その上の中央に「文殊菩薩」右方に「文政七年」「世話人忠蔵」左方に「申八月日」「其外連中」と刻銘されている。文政七年といえば、今から一六七年前、世話人忠蔵を中心として、文殊信仰に篤いこの付近の人びとによって、建立されたものであろう。
「佐保姫に合ふ靴をおく花の下」 白石不舎(しらいしふしゃ)
白石不舎(大正13年9月1日~平成24年2月26日)は西東三鬼に師事。以降、俳句教室や俳句結社「綱」を主宰。句集「作州」を発表。
三鬼の句墓碑や生誕地句碑を建立したほか、「三鬼顕彰全国俳句大会」「西東三鬼賞」「曲水の宴俳句会」の開催にも精力的に取り組み、直弟子として師の顕彰に努めた。
津山市出身。本名 白石 哲。津山文化センター 平成24年9月 設置
(文:『津山市文化協会創立60周年記念誌 津山文化』より)
まちの文化財 日本野・開祖の墓地
顕彰される福田五兵衛
日本原の街のはずれ、日本坂の上の丘に苔むした自然石の墓碑がひっそりと建っている。この墓碑には
元文五申年 雲仙信士霊 九月初六日
此聖霊者国々嶋々無残
順廻仕依而諸人稱日本
五兵衛是以此所日本野ト申傅也
日本野元祖 俗名 福田五兵衛 と刻まれている。
作陽誌によれば「正徳(1700年)の頃、日本廻国をして、終りにこの地に供養塔を築き、その側らに小さき家を建てて、往来の人を憩はしめ、あるいは行臥したる者などを宿めてもっぱら慈愛を施せしかば、誰言ふとなく「日本廻国茶屋」と呼びならわせしを、後には略して日本とばかり唱うるごとくなれり。後にその野をも日本野と稱するも時勢と言うべし」と記されている。
この墓の王は、雲仙信士で、日本野元祖福田五兵衛である。墓碑は、後世この地の人々が五兵衛の徳を顕彰して建てたものと思われる。死没した当時、広戸五穀寺の過去帳には「日本」の地名はなく、五兵衛の没後五十年を経て天明五年六月八日「日本忠助の子」とあり、それ以後死亡者には、ことごとく「日本」という名称が付けられいる。
「日本原」の地名は、日本廻国をして善行を積んだ福田五兵衛を偲んで名づけたものと思われる。
(勝北町文化財保護委員長・金田一記)(『平成5年発行:勝北風の里探訪』より)
「過ぎつらん都のこともとふベきに雲のよそにもわたる月かな」 藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)
元永元年(1118)美作国守になった顕輔が若いころの介の位で美作国に着任、山国の名月に遠い都をしのんで詠んだ。顕輔は崇徳天皇の勅命で「詞花和歌集」を撰したがこの歌は「続詞花和歌集」に収録されていて名高い。
書は中原垂揚氏。神楽尾公園 昭和54年10月 設置
「疎開日記」碑 谷崎潤一郎
「池に落つる雨の音侘し。因に云ふ。この御殿は明治初年にお城より此処に移し建てしものの由にて、愛山宕々庵と号す。床の間に松平康倫公の書『愛山』の軸をかけ、その上に鶴堂公書『宕々庵』の額あり。6畳の間に慎由公夫人静儀の和歌『山は今朝霞のきぬにつつまれて千代の色そふ松の対立』の額あり。」
文豪、谷崎は終戦間際の昭和20年津山に疎開。宕々庵で「細雪」を書き継いだ。八子・愛山
「ふるさとを よぶこゑに あふれゐる時も 晴れて静かなり春の大那岐」芦田高子(あしだたかこ)
昭和の与謝野晶子と呼ばれる。高子(明治40年~昭和54年)は勝田郡勝北町出身。昭和22年、歌誌「新歌人」を主宰、晩年は金沢に住んだがふるさと美作を詠んだ作品は多い。作品では内灘反基地闘争に材を取ったヒューマンな「内灘」が有名。
丹後山 昭和55年11月 設置
「霧に花売の行く川の水はれてゆく」 荻原井泉水
俳誌「層雲」を主宰した井泉水(明治17年~昭和51年)は自由律俳句を確立、日本芸術院会員となり晩年は独自の俳画「草画」を描いた。この作品は昭和16年、津山を訪れ、いまも津山情緒になっている八出の花売り女を詠んだ。千代稲荷宮
「花の上に花現れて夜の城」 竹久雨町
雨町(うてい)(明治27年~昭和47年)は大正14年、山陽吟社を創立、俳誌「山彦」を創刊、半世紀近く郷土俳壇の糧となった。また「雲母」同人となり津山支社を設立したが、飯田蛇笏主宰の死に殉じて解散。勝央町出身。本名 豊。城南病院東 昭和55年11月 設置
「なかなかに まきし垣ねはさもなくて そともの方に しげる なでしこ」 小原千座
千座(寛政5年~慶応4年)は江戸時代の豪農、立石家(二宮)の家系に生まれ徳守神社の神官、小原家の養子となった。幕末の歌人平賀元義が美作の名人30人の筆頭に挙げているように美作歌壇の開拓者としての足跡が大きい。三枚橋南 昭和54年10月 設置
「おのつから あゆみもおそくなりにけり さくら花さく のべのかよひち」 直 頼高
美作三歌人の一人とされる頼高(安政6年~大正8年)は上之町、大隅神社の神主として梅の木に囲まれた「梅の下舎」で美作歌壇を指導、歌誌「水甕」主宰、尾上柴舟に歌の手ほどきをした。秋久家に老梅が残る「梅の下舎」跡がある。
薬研濠北