藤原顕輔 文学碑(総社)
「過ぎつらん都のこともとふベきに雲のよそにもわたる月かな」 藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)
元永元年(1118)美作国守になった顕輔が若いころの介の位で美作国に着任、山国の名月に遠い都をしのんで詠んだ。顕輔は崇徳天皇の勅命で「詞花和歌集」を撰したがこの歌は「続詞花和歌集」に収録されていて名高い。
書は中原垂揚氏。神楽尾公園 昭和54年10月 設置
「過ぎつらん都のこともとふベきに雲のよそにもわたる月かな」 藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)
元永元年(1118)美作国守になった顕輔が若いころの介の位で美作国に着任、山国の名月に遠い都をしのんで詠んだ。顕輔は崇徳天皇の勅命で「詞花和歌集」を撰したがこの歌は「続詞花和歌集」に収録されていて名高い。
書は中原垂揚氏。神楽尾公園 昭和54年10月 設置
「疎開日記」碑 谷崎潤一郎
「池に落つる雨の音侘し。因に云ふ。この御殿は明治初年にお城より此処に移し建てしものの由にて、愛山宕々庵と号す。床の間に松平康倫公の書『愛山』の軸をかけ、その上に鶴堂公書『宕々庵』の額あり。6畳の間に慎由公夫人静儀の和歌『山は今朝霞のきぬにつつまれて千代の色そふ松の対立』の額あり。」
文豪、谷崎は終戦間際の昭和20年津山に疎開。宕々庵で「細雪」を書き継いだ。八子・愛山
「ふるさとを よぶこゑに あふれゐる時も 晴れて静かなり春の大那岐」芦田高子(あしだたかこ)
昭和の与謝野晶子と呼ばれる。高子(明治40年~昭和54年)は勝田郡勝北町出身。昭和22年、歌誌「新歌人」を主宰、晩年は金沢に住んだがふるさと美作を詠んだ作品は多い。作品では内灘反基地闘争に材を取ったヒューマンな「内灘」が有名。
丹後山 昭和55年11月 設置
「霧に花売の行く川の水はれてゆく」 荻原井泉水
俳誌「層雲」を主宰した井泉水(明治17年~昭和51年)は自由律俳句を確立、日本芸術院会員となり晩年は独自の俳画「草画」を描いた。この作品は昭和16年、津山を訪れ、いまも津山情緒になっている八出の花売り女を詠んだ。千代稲荷宮
「花の上に花現れて夜の城」 竹久雨町
雨町(うてい)(明治27年~昭和47年)は大正14年、山陽吟社を創立、俳誌「山彦」を創刊、半世紀近く郷土俳壇の糧となった。また「雲母」同人となり津山支社を設立したが、飯田蛇笏主宰の死に殉じて解散。勝央町出身。本名 豊。城南病院東 昭和55年11月 設置
「なかなかに まきし垣ねはさもなくて そともの方に しげる なでしこ」 小原千座
千座(寛政5年~慶応4年)は江戸時代の豪農、立石家(二宮)の家系に生まれ徳守神社の神官、小原家の養子となった。幕末の歌人平賀元義が美作の名人30人の筆頭に挙げているように美作歌壇の開拓者としての足跡が大きい。三枚橋南 昭和54年10月 設置
「おのつから あゆみもおそくなりにけり さくら花さく のべのかよひち」 直 頼高
美作三歌人の一人とされる頼高(安政6年~大正8年)は上之町、大隅神社の神主として梅の木に囲まれた「梅の下舎」で美作歌壇を指導、歌誌「水甕」主宰、尾上柴舟に歌の手ほどきをした。秋久家に老梅が残る「梅の下舎」跡がある。
薬研濠北
2014年10月8日に津山老人福祉センターに集合して、「平成26年度 津山歴史講座 第7回(現地見学)大庄屋巡り―美作東部(加茂川流域)―美作の歴史を知る会 宮澤靖彦・多胡益治」があり参加して来ました。最初に野村の保田家に伺う為細い道路に入る手前に塞の神様が祀られていました。
塞の神
塞の神は、「才の神」ともかく。もと境の神である。村の境や峠等に祀り、外部から侵入する悪霊を防ぐのが目的だった。
この塞神三注は一般のそれと異なり、排仏毀釈の運動と関連がある。時代の動きに敏感で、国学に造詣の深い保田定静氏は地蔵を移し塞神を祀った。 塞神三注とは、久那斗神、まる岐神、道の神をいう
エノキ跡/勝北町市場/町文化財(史跡)平成2年9月19日指定
西村の県道勝北・三浦線のかたわらに、町指定文化財(天然記念物)のエノキがあった。
樹齢200年あまり、樹高13m、この地方特有の広戸風の吹きつける方向の枝は強風にすくみ、その姿は、まさに広戸風の生き証人といわれる。
永年の風雪に耐えたエノキも、平成2年9月19日に発生した広戸風のため倒れる。「西村のエノキ」と呼ばれて多くの人に親しまれ、幼い日の通学や遠足、奥仙の草刈り、薪とりなど、かずかずの懐かしい思い出を抱かせてくれた木であった。
人びとの心に、いつまでも残る木エノキを、後世に語り伝えたい。(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)
植月城跡 勝田郡勝央町植月中字小山(岡山の中世城館跡)
永正九年(1512)宮山城と改名する。10㍍余りの高台のうえにあり、本丸は一三間×一三間、二の丸は一八間×一八間、北側に約一間半の築地が現存する。
菅原満佐の四男公興が宝治2年(1248)、植月、広野の地頭職となった時築城したといわれ、植月一族の本城である。城主は公興ー安嗣ー重嗣ー重佐ー重長ー重可ー可直ー佐豊ー基可ー重直ー重豊ー重政ー基佐ー能佐ー佐峻ー佐教。
四代重佐は菅家一族とともに京都六波羅討伐に出陣戦死す。この功で大正5年正五位の追賞をうける。(城跡に記念碑が立つ)永正9年城主基佐は、日吉神社を現在地に遷座し、本城も宮山城と改名する。三星城に味方し出陣するも、城主佐教をはじめ多くの一族戦死する。城は岡豊前守が接収、城主となる。毎年4月8日、植月一族城跡に集まり、先祖供養を盛大に行っている。(文:『勝央町誌』より)(2018年8月18日撮影)