志戸部の八幡神社(津山市志戸部)
主祭神 誉田別尊
由緒沿革 勧請年月は詳らかではないが、口碑によると仁徳帝(313~399)の御宇に帰化した秦氏の祖を部民が斎き祀ったものという。当時此の地に倭部を置いて蚕業織絹の業が大いに拓けた、よって地名を志戸部という。
主祭神 誉田別尊
由緒沿革 勧請年月は詳らかではないが、口碑によると仁徳帝(313~399)の御宇に帰化した秦氏の祖を部民が斎き祀ったものという。当時此の地に倭部を置いて蚕業織絹の業が大いに拓けた、よって地名を志戸部という。
2013年2月3日(日)取材
福井の土居地区に、新宮城とかかわって、古い伝承をもつ歴史的にも貴重な観音様が現存している。場所は、火のかま古墳の南、谷をへだてた通称山田といわれる林の中の墓地群の一角にある。ブロックに囲まれた倉庫風の観音堂に安置されており、人よりも大きい、お堂にふつりあいな立派な十一面観音様である。
神宮山木下伝記によると、この観音様は、現福井八幡宮のできる以前に、その他に建立されていた宝昌山正伝寺ゆかりの本尊様と記されている。
そもそも、八幡宮の前身宝昌山正伝寺は、新宮城ができたとき、清瀧寺地鎮和尚の勧めで、城の真東に禍事を払い武運長久を守護するお寺として建立された。その本尊として、清瀧寺と同様の十一面千手観音が、京よりわざわざ仏師を呼び寄せて製作され、長元6年(1033年)盛大な祭祀でもって安置され、以後多数の人々の参詣で賑わっていた言う。
ところが、新宮城が落城した翌年の文治元年(1185年)、縁日の法要のさなか正伝寺が誇る五重の塔より出火し、お寺が全焼する大火となった。危うく本尊の観音様も焼失しそうになった時、熱心な信者により救われたと言う。
以下、その伝記の記述である。「宝昌山正伝寺観世音縁日にて例年の法会あり、多くの善男善女参詣の最中 九つ下り、五重の塔の中央火の室より突然出火してにわかに燃え上がる。衆人驚き消さんとすれど宝昌山には水乏しければ防ぐ便なく瞬く間に本堂に燃え移りたり。土居平の中に長く仲間奉公して居りたりし岡西喜六と呼びなす者、常に観世音に信心して今日も参詣し居りしに出火に驚き、尊き観音様を焼きては恐れ入ると、直ちに本堂に飛び込んで応援の諸人と厨子を担ぎ出し、暫して土居の畝へ持ち来たり菰を敷いて其の上にも菰をかけて当分雨露をしのぎ、その後粗末なる堂を建立し安置し奉り信仰するところより、霊験あらたかなれば平中の者も追々信仰し~明治維新の神仏混合引き分けの達しにて、西の丘の現在地に移転さられたり。なお、表柱の突石は、正伝寺の突き石にて蓮華形あり。」
2012年10月15日、美作総社宮の秋祭りが執り行われました。
宮の略記:今を遡ること千四百年以上前の事ですが、欽明天皇の御代二十五年、大己貴命(オナムチノミコト=大国主命)を御主祭神として御祀りされたのがそもそもの始まりでございます。当初は、現在地よりも西の神楽尾公園の下あたりに祀られていたらしく、現在の場所にお遷しされたのは、元明天皇の御代、和銅六年に備前の国より美作の国が別れ、この地に国府が置かれ、相殿(アイドノ・同じ社殿内)に一宮(中山神社)の神と二宮(高野神社)の神を始めとして、美作の国九百十二社の神を合祀(ゴウシ)され、始めて総社宮と言う御社名が付けられたそうです。
古くは国司等が祭典ごとに参列し、美作の国の総鎮守神として、地域内はもとより、国中の人々がこぞって参拝していたとのことです。
その後、永禄五年(四百三十四年前)には、毛利元就公が今の御本殿の原型を造営され、社領をも寄進されました。元和八年には、森忠政公が、また明暦三年には森長継公が大修理を行いました。
時は過ぎ、明治の時代になり、全国の総社の中で、当社のみが国宝に指定されました。
指定の理由は、建築様式、彫刻などは言うまでもありませんが、御本殿本柱十六本の根元に、約一寸二・三分の根空が十文字に刻んであることです。理学博士・川村清一氏の発見に関わるもので、当時の大工が防虫に意を注いで刻んだものであります。全国の神社では、日光東照宮、大和談山神社の山門と当総社宮本殿の三ヶ所に在るのみだそうです。法改正により現在は国重要文化財に指定されていますが、国の宝、美作の地区の宝・氏子の宝であります。(文:美作総社宮造営記念誌より抜粋)前回の取材はこちら
青柳神社
御祭神 天照大神荒魂 金山彦命 天日筒男命
例大祭 十月十日
中祭 春祭四月 夏祭七月 冬至祭十二月
由緒・沿革
本神社の創建由緒は不詳であるが、古人伝え云ふ。
天平勝宝年中(749~56年)直金を掘収したが失敗し、片金山の柳神社に祈願したところ、金山彦命、天日筒男命を奉賽せよと告げられ、柳神社を相殿として宮殿を造り、社号を中山神社としたのが其の起源である云われている。
又、美作六十六社の一社であり、寛文8年(1668) に再建したとも云われている。「作陽誌」にも中山神社とあり外に国司大明神が祭られていたと云ふ。
其の後、明治6年(1874)青柳神社と改称し、同9年、金山彦命、天照大神荒魂、天日筒男命を合祀して村社に列せられた。明治42年に大字青柳内の水分神社、経津主神社、伊勢神社、滝神社を合祀した。大正2年、時の流れに依り、上加茂神社(現千盤神社)に合祀された。
それ以前は現在地より上の段に双殿として奉賽されていた。現在の本殿は其の一つの宮殿であった。それ以来、遥拝所となり昭和24年再び旧宮山に遷座奉賽される。
平成6年10月、本殿、拝殿等老朽化が激しく、敷地を新しく造成し、本殿の修復、上屋・拝殿を氏子の浄財寄進等により、造営する。
平成9年6月吉日 氏子中 (2012年9月20日取材)(文:案内板より)
日本の数学【和算】
江戸時代に日本独自の数学が発達し、「和算」とよばれています。
中国からそろばんが入ってきて、そろばんを使ったわり算のしかたの本が出版されたり、生活の中での問題が作られたり、いろいろな長さや面積を求める問題が作られたりしました。
そして、人々がくふうをこらした問題を作り、「算額(さんがく)」として神社にかかげることも行われました。
円周率を12けたまで求めた関孝和(せきたかかず)も、和算の発達に力をつくした人です。また、吉田光由(よしだみつよし)という人が書いた「塵劫記(じんこうき)」という和算の本は、多くの人に読まれました。
和算のススメ!(和算とは、和算の教科書、算額というもの、世界的な大数学者 関孝和、和算の衰退、再び光が、子どもたちに和算を教える意義:和田陽子)
中山神社の秋祭りが11月3日にありました。2011.11.3
中山神社は、慶雲4年(707)の創建と伝えられる美作国の一宮で、永禄2年(1559)に再建された本殿は国指定重要文化財です。中山神社の御輿は格式高くしずしずと進むみます。その姿は中山神社ならではのものだと思いました。また、だんじりは新しく造られたものだそうです。春季大祭「お田植祭り」(4月29日)にもだんじりは出ていましたよ。
津山市一宮の本光寺参道の前の小路を上がってゆくと美土路昌一氏の墓があり、横には碑が建っている。右上には「言論自由の語は之を守る為め死を辞せざる者のみ言い得る言葉なり」とあり、下方には「この夏は越せそうも無き米寿かな」とある。後者は死の三日前の絶筆である。
↑2015年12月7日現在は先祖代々の墓地で静かに眠っておられます。
(美土路昌一氏は明治19年7月16日中山神社の社家の一軒で生まれた。)
美土路家(現津山高校100周年記念館)の前の津高の門を入ってすぐ、よく伸びた二本の松がある。これは、はじめて空を飛んだライト兄弟の飛行場の松の種をもらって、母校の庭に寄付して植えたもの。
よく言っていた言葉「一歩退って人に接せよ」、「何ごとも、まず相手のことを考えよ」、「水流先を争わず」(文:津山市文化協会「津山の人物」より)
「現在窮乏、将来有望」これは津山市出身で市の名誉市民 美土(みど)路(ろ) 昌一(ますいち)氏が全日本空輸(ANA)の前身である「日本ヘリコプター輸送株式会社」創立時に掲げたスローガンです。
1886年(明治19年)、苫田郡一宮村(現:津山市一宮)で生まれた美土路 昌一氏は、旧制津山中学を卒業後、文学を志し早稲田大学文学に入学されました。苦学の中、文学の道を断念され大学を中退後、朝日新聞社に入社されました。
入社後は第一次世界大戦(青島戦)に従軍されたほか、上海、ニューヨーク特派員を経た後、編集局長として神風号による東京‐ロンドン間の記録飛行を成功に導くなどの活躍をされました。
その後、日本は戦火の渦に突入しますが、戦中、編集局長、常務取締役と朝日新聞社の要職にあった美土路氏は言論の弾圧にさらされます。
▲中山神社のお田植え祭(2011.4.29)
古来より牛馬の神として名高い。慶雲4年(707)の創建と伝えられる美作国の一宮。永禄2年(1559)に再建された本殿は国指定重要文化財。入母屋造と妻入に特徴のある神社建築様式が見られる。この建築様式は「中山造り」といわれ、美作地方における神社建築の主流となっている。神門は津山市指定重要文化財。また奥宮には『今昔物語』にも出てくる猿神社がある。
●中山神社お田植祭/4月29日/笛や太鼓に合わせて雌雄の獅子が舞い、鍬人が鍬を振って苗を植える様を演じる五穀豊穣を祈る祭り。(津山市HPより)
▲院の庄地図(2011.4.16)。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)
院庄の地は美作の略(ほぼ)中央にあたり、西から東に吉井川が流れ土地は平坦で水陸交通の便に恵まれ上古より美作の中心として栄えて来た所である。
崇神天皇の御宇(316-391)諸国に神戸(じんご)を定め給うや吉備の神戸は苫西郡神戸郷に置かれたと、古書にあるから、それが立地条件から見て院庄の地であることは容易に諾ける。神戸とは諸国総鎮守の祭典、修理の用に充てるための領地で、美作一宮即ち中山神社、美作二宮即ち高野神社の神領になる訳である。
また、大化の改新の昔、院庄平野条理(現在の農地基盤整備)が行われていることから推しても、古くから肥沃な耕地が開けていたことが伺われる。下って王朝時代後鳥羽院の荘園となり、ここから院の荘(庄)の名が生まれたことは広く世に知られているところである。
次いで源頼朝が鎌倉に幕府を開いて武家政治を始めるに当たって諸国に守護職を置き地方の統治を行ったが美作守護職の館は院庄に置かれており、今の作楽神社境内がその遺跡を留めている。
元弘2年、後醍醐天皇は北条高時のために捕えられて隠岐に遷(うつ)されたが、その途中院庄の守護職館に3泊4日御逗留(とうりゅう)になったと伝えられている。その時備前の国の住人児島高徳が、ひそかに行在所に忍び入り桜を削って有名な「天勾践ヲ空シウスル莫レ時二范蠡無キニシモ非ズ」の十字の詩を書き記し、聖慮を慰め奉ったことは余りにも有名である。
「天莫空勾践 時非無范蠡」(「天よ、越王勾践にあたる後醍醐天皇を見殺しに してはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣、つまり、この私高徳がいるのだから」)というように解釈しているようです。
天皇御駐輦中の御製に次の二首がある。
あはれとはなれも見るらむわが民を
思ふこころは今もかはらず
よそにのみ思ひぞやりし思ひきや
民のかまどをかくて見むとは