志戸部の八幡神社(津山市志戸部)
主祭神 誉田別尊
由緒沿革 勧請年月は詳らかではないが、口碑によると仁徳帝(313~399)の御宇に帰化した秦氏の祖を部民が斎き祀ったものという。当時此の地に倭部を置いて蚕業織絹の業が大いに拓けた、よって地名を志戸部という。
和銅年間より毎歳総社に神幸し国司の奉幣に預かった。参集の儀は天正末年(1591)まで行われた。国主森長継の三子長俊侯が当社の指呼の地に別邸を営み、暫々祭祀料を寄進して篤く崇敬した。
誉 田別尊・・・・・ 応神天皇(十五代天皇)、仲哀天皇と神功皇后の第四皇子。「古事記」では品陀和気命、大鞆和気命。欽明天皇の御世(539~571) 神が現れ「我は誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と告げたところから祀ったのが宇佐八幡宮の創祀であり八幡信仰の発祥地である。
倭部(しずりべ)・ 「しとりべ」ともいい、倭織とは梶や麻の繊維で赤や青の縞模様の織があり、織を専門とした部。仁徳天皇・・・・ 第十六代天皇(313~399) (文:松岡宮司より)
参道の桜が遠くからもよく見えました。
志戸部を見渡せる丘にあります。
参道横の枝垂桜が満開でした。
参道を道が横切っています。
狛犬が二対あります。
社務所 神輿蔵
社務所の中に由来が書いてありますが、よく見えませんでした。
稲荷神社が拝殿向かって左にあります。
拝殿
手水鉢 灯篭 石碑
本殿
本殿
末社神
末社神と満開の枝垂桜
御由緒 當社は譽田別尊を祀り、地を八幡山と稱へ此の郷の旧社なれども勧請年月明記を存せず由緒祭神等も亦変革あるか詳ならざるも伝うるに上古
仁徳天皇の御宇帰化せる秦氏の祖神部氏の齋き祀れるものなりと当時此地に倭文部を置き、蚕業織絹の業大いに拓けり。
依而倭文部の転訛により、志戸部と号するに至れり。又近郷に勝部栃畑 栲畑千々姫の剣を祀る。
齋宮 融通王即ち弓月の君を祀る 綾部、錦織、倭文等々織絹に因縁深き地名多きを以て知るべし。
郡村の変革に随ひ盛衰あれ共和銅年間國府を總社の地に設置 以降、美作一宮 中山神社、二宮 高野神社を始め美作六郡六十余郷に鎮座の諸社と共に毎歳々總社に御神幸ありて國司の奉幣に預り参集の儀は天正未年迫道はる
延宝四年国守 森長継の三子長俊公諸候に倒し、當社指呼の地に別邸を営み暫々祭資料を寄進ありて最も崇敬篤かりき 明治初年村社に列格す(社務所に掲げてある札より)(2013年3月31日取材)