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川崎八幡神社の湯立て神事

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▲湯立て神事(写真は2010年) 川崎八幡様年取材記事 

川崎八幡神社縁起 

 鎌倉時代(1185~1333年)後期、朝廷は南北に分裂し、うち続く戦乱に世相は騒然を極めていた。

 元弘二年(1332年)後醍醐帝は、隠岐配流の途中、院庄に駐輦された。
 備前国の忠臣、児島高徳は、杉坂峠(作東町)から御跡を慕い、院庄館で夜陰にまぎれ庭の桜樹に十字詩を奉った。

当事の林田郷川崎村は、吉井川と加茂川が合流して出来た三角州一帯(宇古屋敷)に在り、農耕を主体として生計を営んでいた。洪水による自然災害や、うち続く戦乱のなかで住民は信仰により安住を求めるようになったのであろう。
 元弘元年(1331年、661年前)豊前国宇佐郷(大分県宇佐市)に鎮座する宇佐八幡宮(祭神:誉田別尊「応神天皇」、比売神、気長足姫尊「神功皇后」の三神)を勧請し古屋敷地内に奉祠した。

 慶長八年(1603年、389年前)森 忠政が津山藩主として、信州川中島から、18万6500石を領し入卦、二代長継、三代長義に亘り、石高を増やすため新田の開発を図るとともに、平地から集落を高地へと移転させ農地の拡張を図ったため、実石高は26万石を超えるまでとなった。

 貞享二年(1685年、307年前)三代藩主長義の代に、川崎村の集落は北側の高台(宇寄広)に移転させられた。これにともない、神社も現在地(津山市川崎八幡西1042番地)に遷祠され、社号を弓矢八幡宮と称し安産の守護神として氏子はもとより近隣からも崇敬された。

 境内に三宝荒神社、末社として大歳大明神、惣道大明神、春日大明神、兼田大明神の四社が合祠された。

 現本殿は、近郷まれに見る緻細な彫刻を配しており、文政四年(1821年、171年前)津山藩主、八代松平斉民(確堂)の時代に再建されたものと考察される。(基礎台石に文政治四年三月、石工嘉左衛門の記名がある。) 旧拝殿や舞台、御輿、末社について江戸中期から後期にかけて建設されたものと考えられているが記録はない。先祖代々、崇敬維持されてきた神社拝殿、末社が老朽のため、このたび改築の運びとなったことは、氏子をはじめ関係者の皆様の信仰と郷土愛の賜であり、これを子々孫々に至るまで敬拝、継承を念ずるものであります。(2011年7月18日取材)

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西賀茂神社(津山市杉宮字上の山)

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▲西賀茂神社(2011.7.16取材)津山市杉宮字上の山406番地
鎮座地 大国主命 北境内社 三嶋神社 事代主命
御祭神 味鉏高彦根命(あじすきたかひこのみこと) 南境内社 八幡神社 誉田別命
御由緒
 大化元年物部芳子の祭処と云う往古鴨神社と号し加茂一郷の総社。中古より杉大明神さまと慕い郷人篤く景仰す。東三百九拾間のところ鳥居野(勝加茂保育園の東約150米に地名あり)の神事場には楢部落を含め各部落の神輿神幸郷人こぞって奉行室町末期まであり。今は往時をしのぶのみ。
 現本殿、木鳥居、太鼓は美作国主 森忠政公が津山城築城の時、丑寅位方よけの守護社として家中の伴八郎兵衛、長尾平左衛門を造営奉仕に任じ万治3年9月19日再建公儀寄進あり。夏越大抜祭の茅の輪くぐりは健康と家内安全を祈り、遠祖より連綿として伝承されている。明治6年西賀茂神社と改称幣帛供進社に指定された。
 御祭神の一柱 味鉏(すき)高彦根命の鉏(すき)は農耕用の鋤の意で出雲地方と共に製鉄業が栄えた中国山地の一角。この地に製鉄の神として祀られた境内小祠は神地の遠祖霊奉斎社。昭和20年まで勝加茂運営護持、以後中村と杉宮の氏子が奉護す。
 平成4年7月25日石垣拡張と洗い出し工事完了を以って境内整備を達成す。神域は末永く昔の縁と神厳さを保つよう努めている。
神社祭儀
・再旦祭1月1日、春祭4月3日、夏祭7月下旬日曜日、秋大祭11月2日・3日、冬祭12月3日、月並祭
諸祈願祭
・安産、命名、初宮、七五三 ・厄除、交通安全、家内安全 ・心願諸祈祷
 社務所 勝北町中村282 0868-29-1977 宮司 青山内  (案内板より)

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軒戸(のきど)神社(津山市加茂)

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▲軒戸神社(2011.7.17取材)

軒戸神社由緒
御祭神 天照大神 豊受姫大神 大巳貴命、他
本殿  春日造
例祭  10月16日
末社  御崎神社 天満神社 粟島神社 祖霊社
    古老の口碑に曰く、当社は和銅7年6月田淵村(現塔中)青尾山の麓宮谷に鎮座し加茂郷鎮守と崇敬し加茂大宮と号す。後苫田大明神と唱へ奉る。元暦元年6月霖雨大洪水あり為に青尾山決壊し社殿諸建造物悉く流失せしに、御霊代神幸所の字軒戸の松に掛り留り給ふ依て、此所に仮宮建斎奉る之より軒戸宮と唱へたり、此水害の為社記旧記悉皆流失し漸く衰替し御造営等も賀茂郷中より仕来るも終に塔中、小中原、桑原、小淵の4ヶ村の限りとなりたりと云云。之素より伝来の記録なしといへども古昔より古老の口碑に伝へたり依て伝来の侭を記す。明治44年10月、桑原平野神社、小淵惣神社、小中原八幡神社を合祀す。(案内版より)

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阿波八幡神社

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花祭りの起源と阿波八幡神社(2010.11.3)
阿波八幡神社は、JR因美線美作河井駅より北へ約4キロメートル、旧阿波村(現津山市阿波)字位登山(大ヶ山の東麓の端)鎮座する。主神は誉田別命(15代応神天皇)で、足仲彦命(14代仲哀天皇)・息長足媛命(神功皇后)を配祀した神社である。
口碑によると、慶雲2年(705)、現在の地より少し南に鴨神社が創祀されたと伝えられており、平城天皇の大同元年(806)8月15日筑紫の国(大分県)の宇佐八幡宮の分霊を勧請し、合祀して八幡宮と称し現在の地位登山に移遷したものである。(先年、阿波村文化財保護委員が宇佐八幡宮に行って分霊勧請の記録を確認している)
八幡宮は武神としてのソ崇敬も顕著になり、尼子晴久の中国経略に際しここ美作にも侵入し、さらに播磨の国に出兵する際戦捷を祈願して阿波八幡宮の社殿を焼き払い、その後、戦捷奉實のための家臣村上左京進時泰に命じて社殿を再建した。
弘治4年(1558)年6月のことである。(社蔵の棟礼による)
当時の社殿は、宮4間4面、高さ3間1尺5寸(神主兵部より森美作守への上申書による)とあり、結構壮大な社殿であった。
現在の社殿は寛延2年(1749)村内氏子中により再建されたものである。
高山城(矢筈山)主 草苅景継は良(鬼門)の鎮護として崇敬し社領を寄進し、津山城主森忠政も城の民の鎮護として崇敬したという記録も伝えられている。(2010年 阿波神社の花祭りの様子
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阿波【八幡神社の花祭り】

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八幡神社の花祭り(通称阿波の花祭り) (2010年11月3日)
社伝によれば、「大祭ノ節ハ神幸執行古式ハ孔雀ノ傘鉾二御守ヲ付シ(中略)氏子ハ御幟造花等ヲ獻シ」とあり、大分県宇佐市の葬儀や、中津市の鶴市八幡宮にも当社の花祭りの造花とよく似た造花が奉納されていることから、この花祭りがいつ頃から行われるようになったかは不明であるが、宇佐八幡宮の分霊を勧請した際に一緒に伝えられたものと考えることもできる。
花祭りに使用されるこの造花は、旧阿波村内8地区において1本づつ奉納する。11月3日が秋季大祭であるので(昔は旧暦11月1日であった)、9~10月の適当な日を選んで地区代表の音頭で始まる。心棒の先端に大きい竹籠を取り付け中に麦藁をつめる。その上に色紙や文字を貼った箱を乗せ、その上に榊と幣、人形や造花、風車などを飾る。大竹籠には80本の紙で巻いた「しおれ竹」を刺して垂らす。心棒の途中の両脇に小さい竹籠を取り付け、これにも造花や風車を飾る。地区総出の一日がかりの仕事で出来た造花は大祭当日の午前0時から八幡神社に奉納し、午後2時の御神幸にあたりその先導を務めるのである。
神事場での神事が終わり神霊の還御に当たっても先導を務めるが、花を持つ若者の酒の入った祭り気分も手伝って花と花の練り会いが始まり、芯は取れ、しだれ竹は抜け落ち、無残な姿になるのである。喧嘩も起こるが、遺恨を残さないがこの花祭りの練り会いである。(資料提供:八幡神社の花祭り保存会)

阿波八幡神社の取材記事(観光ガイド)はこちらです。

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