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河面 清瀧寺関わりの広山八幡宮

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河面 清瀧寺関わりの広山八幡宮(1)
 清瀧寺の西側に隣接して、丘陵性の山地があり、その山頂の河面の八幡様がある。地名にちなんで広山八幡宮と言われており、清瀧寺の開基と同時に清瀧寺の鎮守として奉仕建立された伝承のある古い神社である。
 清瀧寺仁王門より100m余下った河面の旧道の麓から、山手へのほぼ真っすぐな急な石段が、神社への参道である。その上がり口に、岡山県のかかげた古い制札がある。風化して文字が読みにくくなっているが、敢えて判読すると、
定 1.車馬便乗 2.鳥獣拿捕 3.竹木伐載
右之條々御定通り 禁之者也 昭和12年7月12日 岡山県
とある。神社のある山の木や竹を伐採してはならない等の禁制の標札であるが、単に聖域を保護するのみならず、神社の造営補修の費用を賄うための大切な意味があった。このような禁制は、歴史的にも次のようにかなりな重みをもって記述されている。
 「清瀧寺修補記によれば  寛文12年(1672年) 宮山地内伐木赦免の事あり その後郡代長沼字右衛門尉禁伐の制礼を建つと云う その文に日く清瀧寺並に八幡宮宮山山林竹木伐採申間敷事云々 寛文13年(1673年)  森家の臣原十兵衛一春  天和3年(1683年) 原十兵衛一益等累代崇敬の為社殿を造営す此れより後 社寺分離宮山竹木一社勝手に造修用に伐採を許される」(「美作国神社資料」による。)2012年1月取材

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萬福寺(高野本郷)と堀内三郎右衛門

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萬福寺(津山市高野本郷)2012.1.14日取材
本部から「92歳の本当に困っている老祖を助けてあげてほしい。」と言われ、33年前にご夫婦で来られたそうです。「このお寺は旧市内から分寺してここに来られたのだと教えてもらいましたが、このお寺の詳細は分かりません。」とおっしゃっておられました。万福寺では、堀内三郎右衛門のお墓があって、小中学生が授業で見学に来られるそうです。墓には「堀内三郎右衛門 君碑 法学博士 平沼 淑郎(よしろう)」と刻んである。今は檀家の人たちと堀内三郎右衛門一族のお墓を大切にお祀りしておられるそうです。(この他、堀内三郎右衛門の妻光井傳(でん)が元禄13年に奉納した燈籠が高倉神社にあります。また、農民の窮状を救おうと、命をかけて強訴におよんだ指導者8人の霊もいわゆる千人塚で供養回向されている。田中角栄氏が書いた義民の碑も高倉にある。)


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広野小学校「松本譲先生頌徳碑」

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(2012年1月9日取材)(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)
広野小 松本譲先生頌徳碑
 広野小学校の校門を入ると、二つの大きな石碑が目につく。大きい方の石碑は、高さ4.2mもある堂々たるものであり、「松本譲先生頌徳碑」とある。広野小学校初代校長松本譲先生をたたえての顕彰碑であり、昭和11年(1936年)に建立されている。当初は上の山ぎわにあったが、新校舎建築によるグラウンド拡張の際、現在地に移された。
 広野小学校は、学制発布後、作州では初期の創立期に相当する明治7年(1874年)に、明知小学校として開校した。当初、場所は、河面の清瀧寺を借りての学校であったが、明治14年には現在の位置に移転し、やがて明知小学校から広野小学校へと校名変更したのは、明治36年(1903年)でzった。今では考えられないことであるが、この間、ずっとこの松本校長先生によって導かれたのであった。なにしろ、松本先生は、明治38年に後進に道を譲るまで、実に30年間も広野小学校一校の校長職であり続けたのである。

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【2011年】津山市沼、吉井さん宅のイルミネーション

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2011年12月津山市沼の吉井宅のイルミネーション。今年の特徴は大きな水車がまわっています。いつ見ても美しく楽しいイルミネーションです。一昨年のイルミネーションの様子はこちらから
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【2011年】津山市沼のイルミネーションです。

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2011年12月、沼の町内会のイルミネーションです。昨年も綺麗に飾っておられましたよ。その時の様子はこちらでご覧ください。

▲津山市沼の自動車学校すぐ南の沼の一角にある町内会の仲良しさんが、皆で協力して道行く人を楽しませてくださっています。きっかけは、「夫婦二人だけなので夢のある事をしようと、2年ほど前から始めたのですが、皆さんが今年もせんの?と言われて毎年仲の良いご近所同士5軒で同時にやっています。何より子ども達が可愛い!と言ってくれるのが嬉しいです。」。「来られた人に喜んでもらえたら嬉しい!」とお話くださいました。とお話くださいました。(2009年より)

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津山人「全日空を創った 美土路昌一氏」

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津山市一宮の本光寺参道の前の小路を上がってゆくと美土路昌一氏の墓があり、横には碑が建っている。右上には「言論自由の語は之を守る為め死を辞せざる者のみ言い得る言葉なり」とあり、下方には「この夏は越せそうも無き米寿かな」とある。後者は死の三日前の絶筆である。

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↑2015年12月7日現在は先祖代々の墓地で静かに眠っておられます。

(美土路昌一氏は明治19年7月16日中山神社の社家の一軒で生まれた。)

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美土路家(現津山高校100周年記念館)の前の津高の門を入ってすぐ、よく伸びた二本の松がある。これは、はじめて空を飛んだライト兄弟の飛行場の松の種をもらって、母校の庭に寄付して植えたもの。

よく言っていた言葉「一歩退って人に接せよ」、「何ごとも、まず相手のことを考えよ」、「水流先を争わず」文:津山市文化協会「津山の人物」より)


 「現在窮乏、将来有望」これは津山市出身で市の名誉市民 美土(みど)路(ろ) 昌一(ますいち)氏が全日本空輸(ANA)の前身である「日本ヘリコプター輸送株式会社」創立時に掲げたスローガンです。

1886年(明治19年)、苫田郡一宮村(現:津山市一宮)で生まれた美土路 昌一氏は、旧制津山中学を卒業後、文学を志し早稲田大学文学に入学されました。苦学の中、文学の道を断念され大学を中退後、朝日新聞社に入社されました。

 入社後は第一次世界大戦(青島戦)に従軍されたほか、上海、ニューヨーク特派員を経た後、編集局長として神風号による東京‐ロンドン間の記録飛行を成功に導くなどの活躍をされました。
 その後、日本は戦火の渦に突入しますが、戦中、編集局長、常務取締役と朝日新聞社の要職にあった美土路氏は言論の弾圧にさらされます。

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荒神山城跡(市指定史跡)

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▲荒神山城跡(2011.5.14)手前はやまなみ街道です。(荒神山123番地の1)

荒神山城跡は、元亀(げんき)元年(1570)に宇喜多氏の武将花房職秀が築城し、わずか24年後の文禄3年(1594)には廃城となった短命な山城です。
 本丸を中心とした曲輪の配置は、連郭式と輪郭式の複合したものであり、枡形虎口の存在、瓦葺き建物の存在を示す大漁の瓦、大規模な井戸跡、本丸周辺に認められる石垣など、中世から近世への過渡期のいわゆる職豊系城郭の特徴を顕著に示しています。

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