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三種の神器八咫鏡と美作「後南朝」秘史(美咲町)

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 岡山県久米郡美咲町飯岡の郵便局前の閑静な田園の中に巨大な石碑があった。
 それは、嘗て津山市加茂町を取材しているときに見た菊の紋章のある菊水山 公卿寺や、加茂神社にあった崇道天皇の御陵、はたまた、勝北町の王子御塚社の由来八咫鏡発掘之地など、色々な天皇にまつわる伝説があり、ずっと気になっていたので知人に聞いたら美咲町飯岡に行ってみたらと教えてもらい訪れてみました。以下、碑文を記してみました。


三種の神器八咫鏡と美作「後南朝」秘史
植月御所の真相(昭和三十六年二月十五日 田中千秋著)

 凡ソ今カラ五百十八前ノ嘉吉三年癸亥十月二十九日ヨリ元禄十年丁丑八月二日マデ、二百五十四年ノ長期間二亘ッテ美作国植月庄北村、現在ノ髙根、鳥羽野両部落ヲ中心二、後南朝正系初代髙福天皇ヨリ、九代良懐親王二到ルマデノ隠レタ天皇ノ行宮ガアッタ。此ノ様ナ厳然タル歴史的事実ガアル事ヲ考エルトキ、今マデノ日本ノ歴史デハ、後ノ南朝ハ大和ノ吉野地方デ絶滅シテイル事二ナッテイルガ、実際二後ノ南朝ガ在ッタノハ、美作ノ吉野地方デアル事ガ確信出来ル。

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八咫鏡発掘之地(美作市)

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 昭和33年7月13日、作東町天皇谷小社(右方約30メートルの山裾)より天皇家継承の印しとされる八咫鏡が同所春名義雄誌によって発掘されまいsた。
 美作の東部、勝田郡植月地方には天網家正統とする御南朝の歴史があり、史実を裏付けるものとして貴重な品であるが、現品は発掘者春奈氏によって山口県の赤間神社に奉献され安献され安置されている。
 一説によれば源平の興亡を極めた壇之浦の合戦において、土居・妹尾家(前方の山の持ち主)の先祖が、ひそかに持ち帰ったものとロマンに満ちた逸話もあり、よって安徳帝を祀った同社に奉献されたものが、発掘者春名氏も今は物故の人となり知るすべもない。土居地区史跡保存整備委員(文:現地看板による)(2020年9月13日撮影)

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中山神社の御神鏡の拓本と大正3年の写真

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2017年2月7日に中山神社の近くに住む森玄保さんに中山神社にまつわる貴重なお話を伺って来ました。上記の写真は大正3年に建てられたもので、当時の中山神社の拝殿には壁がなかったそうです。それから徐々に現在のような姿になってきたそうです。(大正3年の写真には拝殿の壁がない。)

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中山神社

▲中山神社本殿(国指定重要文化財)建造物大正3年4月17日指定

中山神社の沿革
  文武天皇慶雲四年(707)の創祀。貞観六年(864)官社に列し、延喜式では美作国唯一の名神大社で此の国の一宮とされ、永保元年(1081)には正一位の神階を授かる。
  平安時代の代表的説話である「今昔物語」には当社の猿神伝説があり、鎌倉時代の後白河法皇の御撰にかかる「梁塵秘抄」では関西に於ける大社として安芸の厳島、備中の吉備津と共に肩を並べている。
  国家非常時(元寇など)には勅命により特に全国七ヶ国の一宮(武蔵・上野・伊豆・駿河・若狭・美作・肥後)を選び、国家安穏を祈願せしめ当社も其の中に選ばれて祭祀を厳修したとされる。
  建武中興破れて約四百年間は、美作国中戦乱の巷と化し、永正八年(1511)と天文二年(1533)の両度に祝融の厄に遭い宝物・古文書等悉く焼失したが、永禄二年(1559)に至り、出雲国尼子晴久が戦捷報賛の為、社殿を再建し歴代藩主の崇敬厚く、「一宮さま」と親しまれ、明治四年(1871)六月には、国幣中社に列格す。
  現在も、鍛金・冶工・採鑛等の守護神、農耕・牛馬の守護神として広く崇敬されている。

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