中山神社の御神鏡の拓本と大正3年の写真
2017年2月7日に中山神社の近くに住む森玄保さんに中山神社にまつわる貴重なお話を伺って来ました。上記の写真は大正3年に建てられたもので、当時の中山神社の拝殿には壁がなかったそうです。それから徐々に現在のような姿になってきたそうです。(大正3年の写真には拝殿の壁がない。)
上記の写真は、大正3年のハガキだそうです。中山神社の狛犬は昔拝殿前に居たのですが、現在は神門より外に移動されています。
中山神社は、鍛金・冶工・採鑛等の守護神、農耕・牛馬の守護神として広く崇敬されている。
★中山神社の御祭神
・主祭神/鏡作尊(かがみのつくりのみこと) 鏡作部の祖神石凝姥神の御神業を称えた御名
・相殿神/石凝姥尊(いしこりどめのみこと) 天孫降臨の五部神 八咫鏡を造りませる神
/天糠戸尊(あめのぬかどのみこと) 石凝姥神の父神
森玄保さん(神仏具伝統家具調度 森木工所の代表)
「昔は何でも進駐軍に戦利品として持って行かれたので現在はないのですが、御神鏡の拓本だけは残っています。」と拓本を見せて下さいました。3鏡あったそうです。また、直径が81cmもありました。
この神鏡は鋳(い)る時に大きすぎて一度ではうまくいかなかったと伝えられているそうです。
※鋳る:鋳物をつくる際に溶融金属を注入する空所のある型のこと。
御神鏡の裏側の拓本その1
拓本の裏側・主祭神 / 天鏡尊(あめのかがみのみこと) 鏡作部の祖神石凝姥神の御神業を称えた御名
書神
明治十四年五月
岡山懸令従五位 高崎五六(いつむ)
御神鏡の裏側の拓本その2
拓本の裏側・相殿神 / 石凝姥尊(いしこりどめのみこと) 天孫降臨の五部神 八咫鏡を造りませる神
應宮司賀茂百十之請
恭書神號於鏡肖
明治十四年二月
従四位 平松時厚(少納言・平松時言の長男)
御神鏡の裏側の拓本その3
拓本の裏側・相殿神 / 天糠戸尊(あめのぬかどのみこと) 石凝姥神の父神
應宮司賀茂百十之請
恭書神號於鏡肖
明治十四年二月
従三位 池田章政(岡山藩池田家宗家の第12代当主)
ご近所の長老保森さんの子どもの頃の思い出ですが、毎年4月24日の中山神社の大祭に、何年かに一日宮内庁から勅使が来られていたそうです。鳥居の前で、たかたか帽を脱いで一礼をして参られるのですが、その時、生徒達は参道に並んでお出迎えをしたそうです。
神鏡御鋳造の事
明治12年宮司阪東直記辞職シ加茂百十(讃岐多度津の人)これに代て赴任の後御内陣の天井或ハ御本殿三面の御圍板を修繕シ御内陣の御内宮ハ御上段の間御正面に鏡作命御左右の前に大巳貴命瓊々杵尊を向合せに鎮座シ給ひシを元下段と称シ御一段低き下段の左右に下シ祀り奉り又前の宮司黒田成復及ひ津山坪井町三船真蔵同桶屋街菊井次郎三郎等と謀り廣く有志を募りて神鏡を鋳造シ奉らんとシ御祭神を更めて天鏡尊天糠戸尊石凝姥尊の三神と断定シ津山の鋳工百済直次郎に鋳造せしむ抑も百済の祖ハ百済国より帰化せシものにて中古蔵人所の鋳物御用を調達シ後正平六年始て美作國久米郡長岡庄に来往シ天授三百年百済源次か鋳造せし第日本高倉縣寄松山多聞寺と鐫シ梵鐘ハ今も小田中村の安國寺に傅れり爾後銅檠梵鐘等其子孫の鋳りシもの頗る多シ中に就て直次郎か父百済清次郎正國と云ふ者最も鋳術に長シ鋳て後磨かさるを以て鋳放ちと賞誉せり近時児島名和両公の像を鋳るも皆鋳放ちにして甚た鮮明なり既に明治四年十二月本社の神鏡を鋳立しも精工にて今回の鋳造も鋳損すらんとハ誰も思ひ寄らさりシ明治十四年六月十日御手洗川の南に於て三面の神鏡を鋳造せしに二面ハ無事に成就せしも加茂氏か妄りに断定せシ神鏡の裏面に石凝姥尊とあるものハ之れを鋳損シ翌日再び鋳立たるも亦鋳損シ止むなくシて津山下紺屋町の自宅に於て鋳させたるに又四回まて鋳損シ都合七回目に至て完全の品を得たり良工にして此の如く屡々鋳損シたるハ神慮にかなハさるの故ならんと當時巷説最も高かりシ (文:『美作の国一宮誌 下巻』より)