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取材記事内を検索ワード「杉田玄白」で検索した結果,6件の記事が見つかりました。

美作の大庄屋「青井家」

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青井家 青井平内 勝南郡岡村 出石藩
大庄屋まで
 青井家の家伝によれば、赤松円心に仕え、今井姓を名乗っていたが、母方の青山氏の姓とあわせ青井に改姓したという。のち、宇喜田直家に従い、天正5年(1577)岡村に移住したという。岡村など8か村が出石藩領になった延享4年(1747)、青井平内は明見村古田氏とともに大庄屋に任命された。平内の父は祠に祀られている道林禅定門という。
大庄屋として
 青井平内の子軍太は、寛政10年(1798)、岡村絵地図を作成している。出石藩は、岡、為本、明見、入田、金井、中原、百々、周佐8か村を支配し、青井氏、古田氏が管轄した。

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【津山人】箕作秋坪(1825-1886)のエピソード

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【津山人】箕作秋坪(1825-1886)

 箕作秋坪は1825(文政8)年に菊池士郎と多美の二男として備中国下呰部村(あざえむら)に生まれました。13歳で父を亡くしますが、17歳頃から父の旧友・稲垣研嶽(いながきけんがく)の下で漢学を学び、さらに江戸へ出て箕作阮甫(みつくりげんぽ)に弟子入りしました。

 1849(嘉永2)年には、大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入門。この時にはもう箕作家の養子になることが内々に決まっていたようです。翌年、藩に正式に養子として認められ、さらにその翌年、江戸へ戻って阮甫の三女つねと結婚。新進の医師として活動を始めました。この時秋坪は27歳でした。

 翌1852(嘉永5)年には、藩主松平斉民(まつだいらなりたみ)のお目見えもいただきました。

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【津山人】宇田川玄真(1769-1834)

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 宇田川玄真(榛斎)は明和6年(1769)伊勢国(現・三重県)の安岡家に生れる。若いころから、精力的に漢方医学を研究し、江戸に修行に出ます。江戸で玄随に出会い、西洋医学の正確さを諭されたことから、洋学の道に進むことを決意したといわれています。また、玄真は一時期、杉田玄白の婿養子となっていたことでも知られています。

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【津山人】宇田川玄随(1755-1797)

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宇田川玄随(うだがわげんずい)
 宇田川玄随は元々漢方医で、蘭学に対して「西夷之子鴃其舌而左其衽何足以掛歯牙(西洋人はモズのように口を尖らせ、左前の服着た野蛮人で、歯牙にも掛けることはない)」という態度をとっていました。しかし、解体新書翻訳メンバーの一人であった桂川甫周や大槻玄沢から話を聞き、西洋医学に目覚めると、玄白などにも教えを受け、蘭学者となっていったのです。

1792年(寛政4)年10月19日、玄随が主導し、津山在住の藩医をはじめ、町医者2名が参加して、津山ではじめての解臓(解剖)を行った。

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津山洋学資料館前庭の洋学者のブロンズ像

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津山洋学資料館は平成22年3月に新館がオープンし、その前庭に宇田川玄随・宇田川玄真宇田川 榕菴・箕作阮甫・箕作秋平・津田真道の5人の胸像が置かれています。いつも拝見するのですが、はて?この方たちの年代と何時、何処で、何をしたかがごちゃまぜとなってしまっているので、各人のプレートから少しまとめてみました。


津山洋学資料館(つやまようがくしりょうかん)は、岡山県津山市の城東町並み保存地区にある博物館です。建物は「津山洋学五峰(宇田川玄真・箕作阮甫・津田真道・宇田川玄随・宇田川榕菴)」をモチーフに五角形を基本として設計されたとされています。

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杉田玄白の書簡が面白い! 「津山洋学資料館」

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この手紙は面白い!現代に通じる教えが沢山あります。是非、読んでみてください。

霜月十四日付 小林令助宛 杉田玄白書簡

1805(文化2)年11月14日、玄白73歳の書簡。前年に玄白は将軍にお目見えをしており、令助がそれに対して述べた祝賀への返礼、ソッピルマート(塩化第二水銀、消毒用劇薬、当時は梅毒治療に用いられた)の製法に関する問い合わせへの回答、外科治療に関する回答、令助が仕官の斡旋を依頼したことに対して、医業を大切にするべきという忠告などが記されています。(文・情報提供:津山洋学資料館)



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