【津山人】宇田川玄真(1769-1834)

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 宇田川玄真(榛斎)は明和6年(1769)伊勢国(現・三重県)の安岡家に生れる。若いころから、精力的に漢方医学を研究し、江戸に修行に出ます。江戸で玄随に出会い、西洋医学の正確さを諭されたことから、洋学の道に進むことを決意したといわれています。また、玄真は一時期、杉田玄白の婿養子となっていたことでも知られています。


 江戸に遊学し、津山藩医 宇田川玄随に師事、寛政10年(1798)その養子となる。
江戸時代のベストセラー解剖生理学書「和蘭内景医範堤綱」のほか「和蘭薬鏡」「遠西医方名物考」などの薬学書を著す。
 文化10年(1813)幕府天文台の翻訳員に登用され、「ショメール百科全書」の翻訳に携わる。坪井信道・箕作阮甫・緒方洪庵ら多くの門弟を育成し、蘭学中期の大立者と称された。
天保5年(1834)江戸に没す。

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 杉田玄白が、小林令助にあてた手紙のなかで、宇田川玄真のことを「東都ニてハ蘭学之大家ニ御座候」と評しています。


「蘭学事始」にある宇田川玄真の記事
 玄白と玄真は関係が深く「蘭学事始」の中でも、玄真について多くの記述があります。

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 「蘭学事始」によると、玄真は最初、宇田川玄随の漢学の弟子として入門しました。その後、玄随の紹介で、蘭学を大槻玄沢に学び、桂川甫周の屋敷に住み込みました。しかし桂川家は役目と診療で忙しかったため、十分に教えを受けることができず、困っていましたが、ちょうどその頃、後継者を探していた玄白に見込まれ、婿養子となりました。玄白はそのことを非常に喜んだのですが、そのうち玄真が放蕩を始め、主家の名が傷が付くのを恐れて離縁し、絶交しました。離縁後玄真は苦労しましたが、蘭学を忘れず、また仲間の助けもあり、玄随が亡くなった際には、宇田川家を継ぐことになります。それからも玄真は努力を続け、ついには玄白も元のように接するようになったことが記されています。

※放蕩=思うままに振る舞うこと。特に、酒や女遊びにふけること。)kotobankより



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医範堤綱(いはんていこう)1805年(文化2)刊 宇田川玄真 訳
医学用語の体系を整えた江戸時代のベストセラー医学書
解剖・生理・病理学をわかりやすくまとめた解剖書です。現在の医学用語には、本書で定着した言葉が多数あります。リンパ腺の「腺」、膵臓の「膵」の文字は、宇田川玄真の考案したもので、1774年(安永3)刊の『解体新書』で訳された厚腸・薄腸を大腸・小腸に換えています。1808年(文化5)には日本初の銅版解剖図『内象銅版図』を出しています。

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新とあるのが「解体新書」で使われた言葉だそうです。

リンパ腺の「腺」膵臓の「は玄真が翻訳に当たって考案したものです。



matsudaira.jpg「津山松平藩町奉行日記」(文化三年十月二十五日条)
1806(文化3)年、養父玄随に続いて、玄真が開臓(解剖)を津山において行いました。このときには町奉行同心、牢番立会いで、玄真のほか12名が開臓に関わっています。


naigaiyouron.jpg「内外要論」(ないがいようろん)

玄真の経験を踏まえて、蘭方医学の大意を述べた書。「西洋の学問が日本に入ったことにより、医学は格段の進歩をしたが、一人の力だけでは、西洋の学理を理解するだけで、大変な時間がかかってしまう。そのため大意を知ることが肝要である」と記されています。


syouni.jpg「小児諸病鋻法治療全書」(しょうにしょびょうかんぽうちりょうぜんしょ)
スウェーデンの医師ローゼンスタイン著の小児科全書の蘭訳本を玄真が翻訳したもの。小児科の諸病に関する鑑別、診断および治療法を述べています。刊行されませんでしたが、日本初の小児科医学書です。


banzuke[1].jpg寛政10年(1799)正月に当時の蘭学者80名を相撲番付に擬してランク付けしたものです。津山藩医宇田川玄真が現役ではトップの東大関として名があがっているところをみると、彼の評価がうかがえます。

2013.8.23・9.26(情報提供:津山洋学資料館