【津山人】箕作秋坪(1825-1886)のエピソード

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【津山人】箕作秋坪(1825-1886)

 箕作秋坪は1825(文政8)年に菊池士郎と多美の二男として備中国下呰部村(あざえむら)に生まれました。13歳で父を亡くしますが、17歳頃から父の旧友・稲垣研嶽(いながきけんがく)の下で漢学を学び、さらに江戸へ出て箕作阮甫(みつくりげんぽ)に弟子入りしました。

 1849(嘉永2)年には、大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入門。この時にはもう箕作家の養子になることが内々に決まっていたようです。翌年、藩に正式に養子として認められ、さらにその翌年、江戸へ戻って阮甫の三女つねと結婚。新進の医師として活動を始めました。この時秋坪は27歳でした。

 翌1852(嘉永5)年には、藩主松平斉民(まつだいらなりたみ)のお目見えもいただきました。

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 1855(安政2)年、阮甫が隠居して秋坪が家督をつぎました。その翌年に刊行したのが『格致問答』です。
 これは、オランダの科学者ヨハネス・ボイスが著した物理学の教科書を、題名だけ、日本語にして、本文はオランダ語のままで刊行したものです。
 当時、このボイスの本は、多くの蘭学者が利用しており、有名な蘭学塾や各地の藩校でも教科書として使われていました。しかし、原書は高価で稀少なため、学生たちは手書きで写していました。そこで秋坪は、学生たちの勉強に役立たせようと考え、本書を刊行したのでした。



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秋坪、藩主にお目見え「江戸日記」

 秋坪が、藩主・松平斉民(なりたみ)のお目見えをいただいた際の記録です。この時お目見えをいただいたのは、秋坪を含めて18名いました。秋坪については、「初めて御目見 阮甫 倅(せがれ)箕作秋坪」と記されています。



秋坪の見た黒船

  1853(嘉永6)年、ペリーの率いる4隻の艦隊が浦賀沖に来航しました。津山藩では万一に備えて出兵の準備を整える一方、より正確な情報を得るため現地 へ藩士を送ることにしました。この大役に抜擢されたのが秋坪です。秋坪はすぐさま浦賀へ赴き、藩に詳細な報告を送っています。

 さらに翌年1月にペリーが再来すると、秋坪は再び藩から偵察を命じられました。この時には、上陸したアメリカ兵との接触を試み、名刺や煙草を貰っています。

 相次ぐ外国船来航の中、幕府の蕃書和解御用も命じられ、秋坪は洋学者として幅広い活動を求められるようになりました。

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ヨーロッパへ随行
 1861(文久元)年、幕府は通商条約で取り決めた開港開市の実施を延期するため、外国奉行竹内保徳を正使とする交渉使節団をヨーロッパに派遣しました。秋坪は翻訳方兼医師として随行を命じられ、6ヵ国を訪問して翌年帰国しました。
 さらに4年後の1866(慶応2)年には、再び幕府の使節に随行してロシアに向かうよう命じられました。この使節団の目的は樺太の国境画定でしたが、交渉は合意に至らず、一行は空しく帰路につきました。
 帰国からわずか5ヵ月後に大政奉還、さらに2ヵ月後に王政復古の大号令が出され、江戸幕府は終わりを告げました。


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 秋坪と福沢諭吉は、二人とも緒方洪庵の適塾で学んだ兄弟弟子です。福澤は自叙伝「福翁自伝」で、秋坪について「年来の学友でお互い往来し」と記しています。
 そんな二人の親交を物語るのが『蘭学事始』です。杉田玄白の「蘭学事始」は江戸時代には出版されず、弟子の間で筆写されて伝わりました。幕末、知人から偶然写本を入手した福澤は、秋坪と共に何度も熟読し、先人の苦労に涙します。そして後世に伝えるため、出版に踏み切ったのです。
 その後刊行された再版本には、福澤の序文があり、秋坪とのエピソードが記されています。



◆こどもたちへ

 秋坪は阮甫の三女つねとの間に、奎吾・大麓・佳吉・元八という4人の息子を、そしてつねが病没した後再婚したちまとの間に一人娘直をもうけています。

 教育者でもあった秋坪の家庭での教育は、厳しかったといいます。そのかいあってか、息子たちは4人とも海外留学を果たし、直は、人類学者で東京大学教授を勤めた坪井生五郎に嫁ぎました。

 多忙な日々の中で、秋坪が子どもたちと過ごせた時間は、そう長くはなかったことでしょう。しかし、現存する秋坪から子どもたちへの手紙からは、勉学を励まし健康に気を遣う父親の姿が伝わってきます。

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家族や周辺の近況を伝える

 秋坪から子どもたちへ送られた手紙は、佳吉に宛てたものが、現在後裔から資料館へ寄贈されて残っています。いずれの手紙を見ても、家族の近況や気候、日本の様子がこと細かく伝えられています。遠方にいる佳吉が心配せずに済むよう、秋坪が配慮している様子がうかがえます。

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秋坪二男の大麓の手紙                 ロシア出発前の手紙

ロシア出発前、親族への手紙
後藤与四郎ほか宛て箕作秋坪書簡 年未詳9月7日
ロシア出発前に、美作の親族に宛てて送った手紙です。後藤家は秋坪の母・多美の実家です。秋坪がロシア、長男・奎吾と次男・大六がイギリスへ派遣されることが決まり、準備に忙しくしている事が記されています。内容から、秋坪らが渡欧した1866(慶応2)年頃のものと考えられます。



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三叉学舎の開塾
 明治維新の後、秋坪は政府からの出仕の求めを断り、家督を長男の奎吾に譲って隠居しました。そして、浜町(現在の東京都中央区日本橋蠣殻町)にあった津山藩邸の一角で、私塾三叉学舎を開きました。
 東京府に提出された開学明細調によると、開塾は1868(明治元)年11月。1871(明治4)年の塾生は106名にのぼりました。文法や地理、歴史等の原書で英学を学び、他に漢学や数学も教えられたようです。
 閉塾届が出されたのは1881(明治14)年でした。その14年の歴史の中で三叉学舎は、後に日本の政治や経済、教育界を支えることになる人材を輩出したのでした。

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新時代への思い
 一度はすべての公職から身を引いた秋坪ですが、その後も再三の要請があり、東京師範学校摂理(校長)、教育博物館長、図書館長を勤めました。
 日本で最初の学術結社・明六社にも参加し、機関誌『明六雑誌』に女子教育の必要性を説いた「教育談」を掲載しています。この頃知人に送った手紙にも、同様に教育の重要性や、形式的な西洋化への懸念が述べられており、そこからは、中村正直が「虚を斥け実に努めた」と評した通りの人物像が浮かんできます。
 1886(明治19)年に博物館長を辞し、同年12月3日、62歳でその生涯を閉じました。

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お庭には可愛い花が咲いていました。

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文:津山洋学資料館説明より(2015年3月15日取材)